143061
関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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雑談スレ prat5 ( No.[40]0 )
日時: 2012/12/19 12:52:07
名前: 赤城おろし  ID: Z/abUBqc

雑談用スレです。
神社関係だけじゃなくてもOKです。
お気軽にどうぞ。

過去スレはこちら
雑談スレ
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=2
雑談スレ prat2
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=7
雑談スレ prat3
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=17
雑談スレ prat4
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=33
質問 ( No.[40]2 )
日時: 2012/12/20 00:59:15
名前: 赤城おろし  ID: NmjJjbxM

 上野國 総社”宮鍋神社”のような元総社の扱いってどうなるんでしょう?

 安房國 総社”六所神社”が入っているのですから、同扱いになってもおかしくはないと思いますが…。
質問 ( No.[40]3 )
日時: 2012/12/20 13:28:58
名前: 御津垣  ID: Ocs7TaoY
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/12/20 21:58:25

No.2に対しての引用返信です。
> 上野國 総社”宮鍋神社”のような元総社の扱いってどうなるんでしょう?
>
> 安房國 総社”六所神社”が入っているのですから、同扱いになってもおかしくはないと思いますが…。


こんにちは。
ご質問の件ですが、現論社ではなく元社の扱いについては、
特記事項に記載の方式をとりたいと思いますが
如何でしょうか?

安房の元八幡神社もあとで追記しようと思います。

波古會社 調べ ( No.[40]5 )
日時: 2013/01/06 21:21:25
名前: 赤城おろし  ID: BsJx0Gtg
編集: 【回数】 3回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2013/01/07 00:31:33

 昨年末、大湖シャンテホールで開催された「弟橘姫を顕彰するコンサート」を観に行った時、招待券があったので貰ってきました。
第21回特別展「古墳の守り人−盾持ち人はにわと古墳」http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/kamihaku/kohunnomamoribito.htm
かみつけの里博物館 http://www.city.takasaki.gunma.jp/soshiki/kamihaku/

 で、同館に図書コーナーがありまして
”上野国郡村誌”なるものがあったので、短い時間ではありましたが、ちょっとページを繰ってみました。
碓氷郡
・五料町
 社:波古會社 中木ニアリ、祭日二月二十五日
・行田村
 社:気佐石社 村社 気佐石前ニアリ、祭神詳ナラズ、祭日九月十九日

甘楽郡
・行沢村
 社:破胡會社 村社 村の北方ニアリ、祭神 石長姫命 祭日九月二十九日
・諸戸村
 社:破胡會社 村社 村の北方ニアリ、祭神 日本武尊 祭日九月十九日
・菅原村
 社:破古會社 村の中央部ニアリ、祭神 磐長比売命 祭日三月九月廿五日
(主要部のみ抜粋)
 もっと時間を掛ければ、七社見つけられたかも知れません。

 この後、椿名神社 旧社地跡、榛名神社、大沼 赤城神社に行くつもりだったので、これ以上の時間を掛けられませんでした。
 時間ができたら群馬県立 文書館と合わせて、また調べに行こうと思ってます。
○全國 総社の情報整理 ( No.[40]6 )
日時: 2013/01/07 00:40:15
名前: 赤城おろし  ID: BsJx0Gtg
編集: 【回数】 2回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2013/01/07 05:30:37

「提案」かな?

>御津垣さん
 この「全國 総社の情報整理」ですが、「遠征報告・御朱印情報 ○○版」スレ同様、「雑談」ではなく「遠征報告・御朱印情報 全國総社版」スレとして情報を特化、独立させた方が使い易いんじゃないでしょうか?
○全國 総社の情報整理 ( No.[40]7 )
日時: 2013/01/07 18:35:11
名前: 御津垣  ID: 5n0xf3ng

No.6に対しての引用返信です。
>「提案」かな?
>
>>御津垣さん
> この「全國 総社の情報整理」ですが、「遠征報告・御朱印情報 ○○版」スレ同様、「雑談」ではなく「遠征報告・御朱印情報 全國総社版」スレとして情報を特化、独立させた方が使い易いんじゃないでしょうか?


本年もよろしくお願い致します。
上記、了解しました。式内社等と違って情報が少ないかなと思っておりましたので
雑談に入れておりましたが、記事が少なくても検索は楽になりそうです。

今週中にやっておきます。

大原神社&生品神社 ( No.[40]9 )
日時: 2013/02/07 22:08:23
名前: 神楽  ID: HBH2l1WQ

>まさか、生品神社に書置きの御朱印があったとは・・・
>頂けたのでびっくりです。
>できれば御朱印帳に頂きたかった。

私は朱印帳で頂けました。
居る時なら書いてくれますよ。

>大原神社は、土曜日の午後にお伺いいたしました。
>おそらく40代と思われる男性の神職の方に対応していただきました。

その方が宮司さんです。
雀神社 ( No.[40]12 )
日時: 2013/03/19 01:20:38
名前: 神楽  ID: rFTiO6z6

旧郷社だし旧古河の総鎮守だからなのかな?
稲裹神社(奥宮) ( No.[40]13 )
日時: 2013/05/04 22:49:54
名前: 御津垣  ID: O47K9wMo

稲裹神社(奥宮)
【御祭神】宇氣母智神
【鎮座地】稲包山山頂



2012/11/10プチ神楽殿の定期(?)オフ会は、
管理人神楽さんの怪我による登拝不参加と、二人道中(赤城おろしさん、御津垣)
での天候悪化及び、登山道具の劣化により、正直消化不良の感があった。
いつか、よい天気の日に再登拝し満足のいく参拝と風景を眺めたい。
そう考えていた。
(オフ会のレポは、きっと神楽さんが。。。お待ちしています)


2013/4/28
GW初日から天候は安定していたが、翌日夜半からは下降気味らしい。
暖かくなりヒルが出るようになったら、自分は秋まで待つことになる。
日帰りは少々キツイが、業務でのフラストレーション※を解消する目的も含めて
夜中に出発することとなった。

※先週は、査定業務のせいで会社から帰れない日が続き
フラストレーションが溜まっていた。
その前の週末に『いざ、神社!!』のタカヒロさんと御岩山を登り気分もすっきりしていたのだが。
(まあ、ぎりぎりにならないと火がつかない自分が悪いのだ。。。)


2013/4/29
今回は、日帰りということもあり疲れを翌日に持ち越さないように
オフ会とは違う『法師温泉』からのルートを選択した。

途中、赤城高原SAで仮眠をとる。
夜間の運転にも関わらず疲れもない。
7:40登山口に到着した。
駐車場には誰もいない。空には若干の雲があるが、そんなには悪くない。
もろもろ準備をして出発は8:10。

もともとこのルートは東電の鉄塔巡視用のものらしい。
いたるところに東電の杭が打たれているのを見ることができる。
沢沿いの道からやがて山に入ると急登となる。
まだ今年は人があまり入っていないのか雪による倒木がある。

8:50一つ目の鉄塔に着く。
その手前には小さな雪渓があったが雪はぬるんでおり
アイゼンは不要であった。

この鉄塔を越えると、九十九折に高さを稼ぐことになるが、
ここにも雪が残っている。さきほどより傾斜があり怖さが増す。
慎重にキックステップで雪渓を越えていく。


9:25二つ目の鉄塔に着く。通称大鉄塔と呼ばれているようだ。
ここまでくると稲包山のピラミッドの形がよく見ることができる。

さあ、あとひと頑張りである。
通常ならば、巡視路に沿って歩くのであるが、
この季節は冬道を行くことができる。
大鉄塔から、赤沢峠からの登山道に対して直角になるイメージで進む。
まだ雪が、しっかりしていたからこその選択である。
白樺等 立ち木の間を、誰も通っていないであろう
雪を踏みしめて登っていく。

登山道に合流。そして、最後の急登となる。
ここにも雪が張り付いており、キックステップで登る。


9:57稲包山山頂に到着。
稲裹神社奥宮の石祠が鎮座している。
日本三代実録 元慶四年(880)五月廿五日戊寅の項に
『稲裹神』として昇叙の記録をもつ古社である。
御祭神は宇気母智命。保食神、五穀豊穣の神と言われている。
四万川の水源として、稲包山に祀られたらしい。
中之条町側には、関連のお宮が存在する。


前回は見ることができなかったが、すばらしい眺望である。
周りの山々が雪をかぶった姿を見せてくれた。
空はちょっと霞みかかっていましたが、それでも満足のいく天候である。

五月後半には石楠花が咲き多くの人が訪れるらしいが
今日はこの風景を独り占めであった。
参拝後、20分近く頂上で滞在した。


下山には、アイゼンを着用したが、雪がゆるく役にたたない。
むしろ危険な感じである。ここもキックステップで降りるべきであったと思う。

やがて大鉄塔の下にある雪渓に着く。
この雪渓、実は九十九折の道を、2本ほど縦断している。
急傾斜であるが、横着し雪渓を降りることにした。

しかし、やはりというべきか邪な気持ちというのは結果に表れてしまう。
見事に、滑落。。。いや、そこまではいかなかったが滑ってしまった。
実に危うくな場面である。
滑落停止姿勢は実際に効くものだっが、笑い事ではない。
仮にここで滑落しても問題にならないだろうが、それはここであればこそである。
もし、同様なことが、もっと難易度の高い場所であれば
自分は助からなかったであろう。

残雪期に山に入るのであれば、いや山に入るのであれば
それなりの技術というものは必要になってくる。
山岳信仰の山を訪れる予定もあるので、一層の技術習得が必要であると
痛感させられた出来事であった。


そのようなアクシデントもあったが、それ以降は特に問題もなく
11:20駐車場に到着となった。



着替えをし、猿ヶ京温泉「まんてん星の湯」で汗を流し帰路につく。


※スレッド間違いの為、転載ですm(_ _)m。
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稲裹神社(奥宮) ( No.[40]14 )
日時: 2013/05/04 23:01:55
名前: 神楽  ID: O47K9wMo
編集: 【回数】 1回   【名前】 神楽  【最終日時】 2013/05/04 23:02:33

お、また登られたのですね!
写真綺麗です。

御津垣さんでも滑落するんだ・・・少なかったとはいえ雪山は恐ろしいですね。
私も雪山は行かないけど、また落ちないように気をつけなきゃと思いましたよ。

オフレポは、あ、稲裹もですが稲含もですね・・・。
銚子と鷲子山もか  頑張ります。
稲裹オフは別行動中何をやっていたかとかありますから優先してみようかな。>

※スレッド間違いの為、転載ですm(_ _)m。
上野国神名帳リニューアル ( No.[40]15 )
日時: 2013/06/07 15:41:37
名前: 神楽  ID: ZEIrMbQE
編集: 【回数】 1回   【名前】 神楽  【最終日時】 2013/06/07 15:42:27

限りなく連絡に近いですが、上野国神名帳の神社サイトをリニューアルしました。
論社放置していたのを追加。
まだ論社追加ありますが、一旦ここまで載せておきます。

http://www.satic.net/
上野国神名帳 ( No.[40]16 )
日時: 2013/06/08 08:37:49
名前: 赤城おろし  ID: lURkeBak

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-23203
上野国神名帳 ( No.[40]17 )
日時: 2013/06/11 01:14:33
名前: 神楽  ID: QKmf4PuU

愛知県西尾市立図書館所蔵の群書類従って公開されてたんですね!
情報ありがとうございます。
都波岐神社 境内社 ( No.[40]18 )
日時: 2013/08/17 01:52:13
名前: 赤城おろし  ID: 8hsVgimk
編集: 【回数】 4回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2013/09/17 21:43:01

 先日、伊勢國一之宮 都波岐・奈加等神社に行った際「同社に於ける小川薬王寺社(式内 小川神社論社)の扱い、つまり境内に在る単独社なのか都波岐神社の摂社なのか?」ということを宮司さんに問うてみた。
 答えは後者であった。
 と言うことで、「都波岐神社 小川薬王寺社」の墨書きに[都波岐神社]の社印を押してもらい御朱印を頂いた。「今まで40年以上ここで宮司やってるけど、こんな事を言って来た人は初めてだよ」と苦笑いしつつ、快く応じて下さった。
 前者(単独社扱い)なら「式内 小川神社」の墨書きに[神璽]でも押印してもらおうか?と思っていました。

 と言うことで、玉敷神社境内 宮目神社(式内 宮目神社論社)もこのテで行って(言って)みようか?と思っています。
 因みに、大國魂神社では「大國魂神社 摂社宮乃盗_社例祭 平成二十五年七月十二日」と墨書きしてもらい[大國魂神社]を押印してもらいました。
 ところで… 何に拘ってるか?と言いますと、いずれも「天鈿女命を祀る神社である」ということです。

追補: 御朱印画像追加しました
1376671933-1.jpeg 1376671933-2.jpeg
都波岐神社 境内社 ( No.[40]19 )
日時: 2013/08/18 22:43:45
名前: 神楽  ID: WPXaDZHQ

そういう手がありましたかぁ。

まぁ御朱印が無いなら文字入れ+本社印なら可ということなのかもしれませんよね。
玉敷神社で前玉神社も頂きたいけど、無いですから出していませんというのも何とかなるのかも?
全国一宮 ( No.[40]20 )
日時: 2014/07/17 00:32:53
名前: ゼロ  ID: /XxALfws
参照: http://togoku.web.fc2.com/index.html

どうもお久しぶりです。
Wikiを参考にして、とりあえず一宮といわれる神社を参拝して、御朱印をいただけました。
全国一宮会加盟社以外では、

阿波国 一宮神社
阿波国 上一宮大粟神社(曼荼羅霊場)
阿波国 八倉比売神社
壱岐国 興神社
対馬国 厳原八幡神社
越後国 天津神社
武蔵国 小野神社(多摩)
武蔵国 小野神社(府中)

番外として
多禰国 益救神社
渡島国 徳山大神宮
渡島国 姥神大神宮
石狩国 岩見沢神社
北見国 網走神社

以上では御朱印はいただけます。要連絡・祭事のみの場所もありますが。
全国一宮 ( No.[40]21 )
日時: 2014/07/19 11:27:24
名前: 御津垣  ID: GKzYNL6c

お久しぶりです。
情報有難うございます。


>壱岐国 興神社
こちらでも御朱印を頂けたのですか。
最近は忙しく遠出もままならない状況で、
壱岐に伺えるのはいつになるやら。。。

>多禰国 益救神社
屋久島は、登山を含めて伺いたいものです。
雨ばっかりらしいですから、御朱印帳の扱いは気をつけないと
いけませんね。


No.20に対しての引用返信です。
>どうもお久しぶりです。
>Wikiを参考にして、とりあえず一宮といわれる神社を参拝して、御朱印をいただけました。
>全国一宮会加盟社以外では、
>
>阿波国 一宮神社
>阿波国 上一宮大粟神社(曼荼羅霊場)
>阿波国 八倉比売神社
>壱岐国 興神社
>対馬国 厳原八幡神社
>越後国 天津神社
>武蔵国 小野神社(多摩)
>武蔵国 小野神社(府中)
>
>番外として
>多禰国 益救神社
>渡島国 徳山大神宮
>渡島国 姥神大神宮
>石狩国 岩見沢神社
>北見国 網走神社
>
>以上では御朱印はいただけます。要連絡・祭事のみの場所もありますが。
>
全国一宮 ( No.[40]22 )
日時: 2014/07/20 22:09:26
名前: 赤城おろし  ID: TlTtWF7Q
編集: 【回数】 1回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2014/07/22 01:16:48

No.21に対しての引用返信です。
>雨ばっかりらしいですから、御朱印帳の扱いは気をつけないと
>いけませんね。

 初の鳥海登山での雨で御朱印帳にシミができちゃいましたもんねぇ
赤城神社 湖水祭 ( No.[40]23 )
日時: 2014/08/08 16:10:35
名前: 赤城おろし  ID: yYPY.YMM
編集: 【回数】 1回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2014/08/08 16:20:30

 最近、書き込みが無く 寂しいので…

 本日、赤城神社(大沼湖畔)の”湖水祭・八朔祭”でしたので参加してきました。

 序でですが、新しい御朱印帳が出てました。
 昨年 刺繍表紙(青空バージョン)が出ましたが、そのあと「夕日バージョンがあったら買うのになー」って言った吾人が居られましたのでその旨を伝えておきましたが、それが叶えられたようです。
 「夕日バージョンが出たら買う」と言ったお方、「望み通り出ましたよ。買って下さいね
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日光二荒山神社 摂末社 御朱印 ( No.[40]24 )
日時: 2014/08/09 11:56:57
名前: ゼロ  ID: Ur2SPts2
参照: http://togoku.web.fc2.com/index.html

先日、日光2社1寺+中宮祠に行ってきたのですが、追加情報まで。

二荒山神社
・二0荒山神社・本宮神社・滝尾神社の御朱印に、金の神紋が押されるようになってました。
・若子神社、滝尾高徳水神社、日光連山遥拝所の御朱印が新たにできてました。

日光東照宮
・奥宮も御朱印あります(書置き)
・松平容保筆の御朱印(2種類・書置き)が頒布されてます。

・輪王寺
大判サイズの御朱印帳(三仏堂+桜の図柄)が新たにできてました。
日光二荒山神社 摂末社 御朱印 ( No.[40]25 )
日時: 2014/08/10 22:42:42
名前: 神楽  ID: e6a.I2.U

ゼロさん、ご無沙汰しています。
日光の御朱印情報ありがとうございます!末社があるのに摂社の若子神社が今まで無かったのが変でしたからね。

ただ中宮祠で戴けるものも入れて、日光の御朱印を1回で全部集めるとなると、神社だけでも相当かかりますね・・・。
仏閣集めている方はもっとですけど
赤城神社 湖水祭 ( No.[40]26 )
日時: 2014/08/10 22:53:38
名前: 神楽  ID: e6a.I2.U

赤城おろしさん、情報ありがとうございます。

綺麗な御朱印帳ですね!
ということは3種類になったのかな?
やっと赤い朱印帳が埋まったので、次は白とどっちにするか悩みますねぇ。
赤城神社 湖水祭 ( No.[40]27 )
日時: 2014/08/12 12:33:40
名前: 御津垣  ID: rdyhVBfE

夕陽バージョンって、自分も言ったような気がする
群馬が近くなったし、ちょっと遠出するか。


No.23に対しての引用返信です。
> 最近、書き込みが無く 寂しいので…
>
> 本日、赤城神社(大沼湖畔)の”湖水祭・八朔祭”でしたので参加してきました。
>
> 序でですが、新しい御朱印帳が出てました。
> 昨年 刺繍表紙(青空バージョン)が出ましたが、そのあと「夕日バージョンがあったら買うのになー」って言った吾人が居られましたのでその旨を伝えておきましたが、それが叶えられたようです。
> 「夕日バージョンが出たら買う」と言ったお方、「望み通り出ましたよ。買って下さいね
赤城神社 湖水祭 ( No.[40]28 )
日時: 2014/08/15 14:01:55
名前: 赤城おろし  ID: uIWv6RE6

No.27に対しての引用返信です。
>夕陽バージョンって、自分も言ったような気がする

 「自分も」って言うか、御津垣さんのコトです
赤城神社 湖水祭 ( No.[40]29 )
日時: 2014/08/18 01:21:00
名前: 御津垣  ID: 6w6pKymQ

あ〜、やっぱりですか^_^;
例の下見の時に見せて頂いた青空バージョンに対しての
コメントでしたよね。
一応ですが、青空ももちろんいいんですよ。

No.28に対しての引用返信です。
>■No.27に対しての引用返信です。
>>夕陽バージョンって、自分も言ったような気がする
>
> 「自分も」って言うか、御津垣さんのコトです
行田八幡神社 ( No.[40]30 )
日時: 2014/10/31 13:45:32
名前: まほろば  ID: 2U6RBX9w
参照: http://mahorobakikou.ldblog,jp

埼玉県行田市に鎮座する「行田八幡神社」に参拝してきました。

「忍城下七福神」の「大国主神社」の御朱印を頂きました。

境内にある末社?の「目の神社」の御朱印もありました。
信仰される方が多いのですかね?
行田八幡神社 ( No.[40]31 )
日時: 2014/11/10 21:55:28
名前: 神楽  ID: 5c5Vzyhw

御朱印3種もあるんですね。
オリジナル朱印帳もあるから、今度行田へ行ったら立ち寄ってみます。
桃の御朱印があれば面白かったのですが、目の方ですか。
眼病予防ですかねぇー。
上総国 国史現在社について ( No.[40]32 )
日時: 2014/12/31 12:26:11
名前: 御津垣  ID: v0oWAtP6

上総国史現在の『代神』『神代神』『神氏神』は、市原市の「神代神社」とのことらしい。
ただし、怪しい部分があるので、注釈(※部分)で記載しておく。

三柱の御祭神に、それぞれに位階を賜っているという説明もできるが。。。
あとは時間があるときにでも調べてみましょう。



〜千葉県神社庁のHPから〜
景行天皇の40年創祀。神階従5位上。明治4年11月29日郷社に列格。
『三代実録』巻15に「景行天皇40年(114)皇子小碓王(日本武尊)東夷を征つため
相模国より海を渡り上総国に至りし時、国土開かれず蒼生(万民)聊も生れず、
皇子之を深く憂え仍て村長に命じ社殿を創建し日神を鎮め奉る。
此れに於いて神徳世間に暉き其の後朝廷より、しばしば御位を賜る。」と記されている。

貞観10年(868)9月17日上総国正6位上神代神授従5位下。
   ※1 三代実録では『代神』
       → 市原市の案内などでは、この年の位階が載せられている。

元慶元年(877)閏2月26日上総国正6位神代神従5位下を授けられる。
   ※2 三代実録では『神代神』

同年5月17日上総国正5位下勲5等神代神授従5位上を授けられる。
   ※3 三代実録では『神氏神』
       勲5等の記述は、先に挙げられている「姉前神、嶋穴神、飫富神、橘樹神」を指しており、
       神氏神には当てはまらないように思われる。
上総国 国史現在社について ( No.[40]33 )
日時: 2015/01/08 14:47:58
名前: 御津垣  ID: jj11M3CE

三橋 健さん(國學院大學大学院客員教授)の「国史見在社について」国史見在社表覧を
確認すると『神代神』と『神氏神』は同一としているようだ。
同一としている根拠もあるようであるが、どの書物を参考にしているかは分からない。
恐らくは、記載されている「新訂増補国史大系本」になると思う。

ちなみに『代神』は、代の前に『神』の字が抜けたものと考えられているようである。
しかし、『代神』と『神代神』が同一としても、同じ位階を賜るということがあるのであろうか。


No.32に対しての引用返信です。
>上総国史現在の『代神』『神代神』『神氏神』は、市原市の「神代神社」とのことらしい。
>ただし、怪しい部分があるので、注釈(※部分)で記載しておく。
>
>三柱の御祭神に、それぞれに位階を賜っているという説明もできるが。。。
>あとは時間があるときにでも調べてみましょう。
>
>
>
>〜千葉県神社庁のHPから〜
>景行天皇の40年創祀。神階従5位上。明治4年11月29日郷社に列格。
>『三代実録』巻15に「景行天皇40年(114)皇子小碓王(日本武尊)東夷を征つため
>相模国より海を渡り上総国に至りし時、国土開かれず蒼生(万民)聊も生れず、
>皇子之を深く憂え仍て村長に命じ社殿を創建し日神を鎮め奉る。
>此れに於いて神徳世間に暉き其の後朝廷より、しばしば御位を賜る。」と記されている。
>
>貞観10年(868)9月17日上総国正6位上神代神授従5位下。
>   ※1 三代実録では『代神』
>       → 市原市の案内などでは、この年の位階が載せられている。
>
>元慶元年(877)閏2月26日上総国正6位神代神従5位下を授けられる。
>   ※2 三代実録では『神代神』
>
>同年5月17日上総国正5位下勲5等神代神授従5位上を授けられる。
>   ※3 三代実録では『神氏神』
>       勲5等の記述は、先に挙げられている「姉前神、嶋穴神、飫富神、橘樹神」を指しており、
>       神氏神には当てはまらないように思われる。
>
金の鷲に乗る神 ( No.[40]34 )
日時: 2015/01/16 22:14:28
名前: 御津垣  ID: THGMBmTA
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2015/01/16 22:16:10

鹿島神社
【御祭神】武甕槌神・建御名方神
【祭祀】 例祭 10月17日
【鎮座地】東茨城郡城里町上古内238(旧常北町)
【旧社格】村社

『茨城の史跡と伝説』より。
東茨城郡常北町(旧西郷村)は朝房山の北麓一帯をしめ、和名抄にいう那賀郡鹿島郷の地に当たり、
大字古内は朝房山の古名フジフジの名残りといわれている。
ここらあたりを鹿島郷と名付けたわけは、二十年目ごとに造営する定めになっている鹿島神宮修造の材木を伐り出す。
”宮材之山”であるからである。六国史の中に三代実録貞観八年正月の条下に
「是より先、常陸国鹿島神宮司云ふ、鹿島大神宮惣六箇院、二十年間に一度修造を加ふ、
所用材木五万余枝採造する宮材之山は那賀郡に在り、宮を去る二百余里(六町一里)行路険峻、
挽運の煩ひ多し」とあり、五万余枝の宮材というのは栗材である。
鹿島は空気が多量の塩分を含んでいるので、栗材でないと二十年は保てない。
それで遠隔地であり、道も険悪であるが、栗の木が多いこの地方が、”宮材之山”に選ばれたわけである。
だがそれだけではなく、鹿島大明神は奥州塩釜から”金の鷲”に乗って初めて常陸の国に来られたが、
その天降られた地が”常陸国中郡古内山”※2であるというのである。
この伝承は、僧円禎が延文三年に編んだ『安居院神道集』の中に
「鹿島大明神は天津児屋根命金鷲に駕して常陸国へ天降りつつ古内山の旧跡鹿島の里に顕る」とか
「其後国中を廻り、鹿島郡宮処に御在所を定む」とか、鹿島大明神と天津児屋根命とまぜこぜにしながら書き留めている。


※1
 祭神が降臨したという伝承の古内山の地は、「鹿島土屋(土谷とも)」と称される。


郷土の伝説を、声を大にするわけでもないが誇りを持って守っている感がある。
神社に向かって右側の山は、三代実録にある栗材を工面した土地であるという。

地元の古老が言うことには、
「子供の頃は、自分の背丈ほどの(直径の)栗があり、よく伐採を手伝わされた」
とのことである。残念なことに、今はそのような大木を見つけることはできない。

鹿島土屋(かしまどや)の伝承地は、今は私有地内となっている。



[卷十二貞觀八年(866)正月廿日丁酉] 〜朝日新聞本より抜粋〜
鹿嶋大神宮惣六箇院。廿年間一加修造。所用材木五萬餘枝。工夫十六萬九千餘人。稻十八萬二千餘束。採造宮材之山在那賀郡。
去宮二百餘里。行路嶮峻。挽運多煩。伏見。造宮材木多用栗樹。此樹易栽。亦復早長。宮邊閑地。且栽栗樹五千七百樹。樹卅四株。
望請。付神宮司。令加殖兼齋守。太政官處分。並依請。


写真
 社頭
 社殿
 鹿島土屋伝承地
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金の鷲に乗る神 ( No.[40]35 )
日時: 2015/01/17 01:23:32
名前: 赤城おろし  ID: wPJWuEPQ
編集: 【回数】 1回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2015/01/17 01:27:03

あ〜
一人で登ったんですか?

宮司さんのお話では「鳥居(のようなもの?)がある」とのことでしたが、”お宮”のようなもの(石祀とか)はなかったんでしょうか?
織姫神社 新御朱印帳 ( No.[40]36 )
日時: 2015/07/08 00:38:44
名前: 赤城おろし  ID: lp50/cg6
編集: 【回数】 4回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2015/08/24 21:29:30

 織姫神社でオリジナルの御朱印帳が出版されたとのことで購入してきました。
 5月には出てたようですが、 織姫(八千々姫命)さま・機神さま用の御朱印帳として使うつもりなので、やはり「同社七夕日付の御印を頂いてから」ということで待ちました。
 とは言え、機神さまを本殿祭祀してる神社も多くはないので、先ずは桐生天満宮境内社 機神神社の御朱印(御印は天満宮)を戴いてきました。
 今後は伊勢國の服織神社・機殿神社辺りから尋ねて行こうと思ってます。
 次は服織神社(尾張國一之宮 真清田神社 境内社)かな?
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織姫神社 新御朱印帳 ( No.[40]37 )
日時: 2015/07/20 00:15:12
名前: 神楽  ID: QYOAV0XU

織姫神社のオリジナル、全然気が付きませんでした・・・。足利市のオリジナル御朱印帳としては初ですね。
情報ありがとうございます!私も手に入れてきます。
織姫神社 新御朱印帳 ( No.[40]38 )
日時: 2015/08/23 00:50:31
名前: 赤城おろし  ID: 2Gno1mzQ
編集: 【回数】 2回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2015/08/23 00:53:42

No.36に対しての引用返信です。

1.服織神社(三重県鈴鹿市御薗町2019)
2.織殿神社(三重県多気郡明和町佐田1284)
3.服織神社@尾張國一之宮 真清田神社(愛知県一宮市真清田1−1)
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織姫神社 新御朱印帳 ( No.[40]39 )
日時: 2015/08/23 01:00:48
名前: 赤城おろし  ID: 2Gno1mzQ
編集: 【回数】 3回   【名前】 赤城おろし  【最終日時】 2015/08/23 01:05:27

 織姫神社でオリジナルの御朱印帳が出版されたので購入してきました。
 今回は紺色版  やはり「七夕日付(旧暦)の御印を頂いてから」ということで…。
 機神さまを本殿祭祀してる神社も多くはないので、先ずは八雲神社境内社 機神神社の御朱印(御印は神璽)を戴いてきました。
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石岡市 足尾神社 ( No.[40]40 )
日時: 2016/01/03 23:33:08
名前: 御津垣  ID: FZ0s.tww
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2016/01/18 21:19:30

明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。

富岡八幡宮の記事で話題にされていたようですので、
ネタを借りてちょっと投稿します。

話題にあった通り、昨年中に竣工し、関係者には12月に報告があったようです。
改築の中身としては、
 ・足尾山頂上の「本殿」  ※
 ・足尾山頂上下の「拝殿」 ※
となります。

 ※関係者に改築建設委員から配布されている資料には
  「本殿→奥宮」、「拝殿→本宮」としているようです。


自分は、元日に麓の「遥拝殿」でその話を禰宜さんより伺い訪ねてみました。

尾根道から拝殿まで車で上がることができるようになっておりましたが
すれ違うことはできない幅であること、尾根道から参道に入る部分にある
側溝に落ちそうで、自分は車を入れませんでした。

以前の拝殿は、松の倒伏により社殿を損壊し、
その後修繕の工面の間に損壊状態が進んだことにより
解体となってしまったのですが、事実を知らない方には
放置された状態と映ったかもれません。
(東日本大震災は、最後の決断を与えたにすぎません。)

ともかく、ちょっと時間がかかったようですが直ってよかったです。

ちなみに頂上は、登れる服装ではなかったので
まだ伺っておりません。

写真:
 参道入口
 拝殿(本宮)1
 拝殿(本宮)2
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石岡市 足尾神社 ( No.[40]41 )
日時: 2016/01/05 12:59:18
名前: 神楽  ID: fys0SswA

御津垣さん、詳細情報ありがとうございます。
なるほど、そういうことだったのですね。

まだ未参拝なので、車の情報がとても助かります。
足尾神社奥宮 ( No.[40]42 )
日時: 2016/01/17 20:26:07
名前: 御津垣  ID: TV5y2egc

天気もよかったので加波山〜きのこ山までの縦走がてら
足尾神社奥宮に伺ってきました。

風も適度なようで、足尾山ではハングライダーやパラグライダーが
気持ちよさそうに飛んでいました。


写真:
 足尾神社奥宮
 足尾神社奥宮
 離陸場から龍神山〜霞ヶ浦方面
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足尾神社奥宮 ( No.[40]43 )
日時: 2016/01/19 00:15:46
名前: 赤城おろし  ID: 8fgnesdg

No.42に対しての引用返信です。
>写真:
> 足尾神社奥宮
> 足尾神社奥宮

 これは、これで完成形態なのでしょうか?
 これに覆殿を建てるとかの追加工事があるとか…
足尾神社奥宮 ( No.[40]44 )
日時: 2016/01/19 21:39:53
名前: 御津垣  ID: nTL4EFNI

No.43に対しての引用返信です。
>■No.42に対しての引用返信です。
>>写真:
>> 足尾神社奥宮
>> 足尾神社奥宮
>
> これは、これで完成形態なのでしょうか?
> これに覆殿を建てるとかの追加工事があるとか…

これで完成だと思います。
奥宮は震災の影響で建て替えられていますが
震災前の写真がありましたのでご確認ください。
1453207193-s1.jpeg
三宅島式内社加弥命神社探訪 ( No.[40]45 )
日時: 2018/01/13 18:07:16
名前: 御津垣  ID: F4r1JsgM
編集: 【回数】 3回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2020/03/01 13:03:54

三宅島式内社加弥命神社探訪

加弥命神社
 御祭神:加弥命(佐伎多麻比当スの第二王子)

=================================================
 二宮神社すなわち式内社加弥命神社の最も古い社地は『かみ(い)の宮』であると
いわれているが、恐らく御鎮座当初の社地であろうと思わわる。他のいくつかの神社と
共に明治7年7月3日の噴火にあい、当時まで辛うじて残っていたらしいお社も、
火災に罹って二宮神社に合祀され、御笏神社の境内神社の一つとなり、
やがてまた御笏神社の御本殿に完全に合祀されることとなったものである。
しかし現在でも島民の記憶の中には、「かみいの宮は御神徳の高い神様である。」と
いうことだけは、非常に強く残っている。
 「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、
山側へ西−西南方向に水平約400メートル(目測)ほど登ると、
径約60メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、目測も極めて
困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。
火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7メートル(目測)、火口底にはスコリアが
やわらかく積っていて、スギが植林されている。その火口底のほほ中央に、
目通り約2メートル50(目測)高さ約15メートル(目測)、木ずえが噴火にあって
枯れたような枯れ方をしているが、この島でもちよっと見かけない程のシイの大木が
ある。その大木のまわりには大枝の折れたものが落ちており、その範囲だけは
植林されていない。高さ約10メートル(目測)のシイ、高さ約3メートル(目測)のツバキ、
高さ約2メートルのタブなどが、下生えのように疎に生えている。
 シイの大木の根元の北東を向いたほらに、地上部高さ20センチメートル、
幅18センチメートルの細長い玄武岩の海礫が、長径を縦にするようにさし込んで
立ててある。地下部が、もう20センチメートルぐらいあるように見える。
 付近の見通しが全くきかないこと、2万5千分の1地形図の等高線がよく描かれて
いないために、その位置を図上に記入しにくかった。

  森谷ひろみ『三宅島式内社に関する歴史地理学的研究』
=================================================

伊豆国式内社加弥命神社は、現在御笏神社に合祀されているが
元の社は、『神居宮』であるという。
神居宮の所在は、世代交代や、相次ぐ噴火で人が山に入らなくなったこともあり
はっきりとしたことは分からなくなっていた。

この神居宮に関する記述がある書物としては以下のようなものがある。
『写真集 三宅島の神社』 佐藤源吾
『三宅島式内社に関する歴史地理学的研究』 森谷ひろみ

2017某日 自分が行った三宅島での探索は、
森谷氏の著書にある以下の記述をもとに行った。
-----------------------------------------------------------------------------
「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、
山側へ西−西南方向に水平約400メートル(目測)ほど登ると、
径約60メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、
目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。
火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7メートル(目測)、
火口底にはスコリアがやわらかく積っていて、スギが植林されている。
その火口底のほほ中央に、目通り約2メートル50(目測)高さ約15メートル(目測)、
木ずえが噴火にあって枯れたような枯れ方をしているが、
この島でもちよっと見かけない程のシイの大木がある。
-----------------------------------------------------------------------------

この文章をもとに現在の地形に400m地点を書き込んでみたが、
火口的な地形は見いだせず、森谷・佐藤両氏が載せている地図情報と
ずれがあるように思えた。
森谷氏自身も「図上に記入が困難であった」と書いていることもあり
位置は正確ではないのかもしれない。

では、その爆裂火口はどこにあるのか?という点であるが、
そもそも爆裂火口とどのようなものであるかを調べる必要があった。
小学館のデジタル大辞泉によると
「爆発的な火山活動により、山体の一部が吹き飛ばされてできた火口。
火砕丘をもたないため、くぼんだ地形となる。爆発火口。」とある。
この記述をもとにすれば、火砕丘タイプの火口は、隣接する丸山で
爆裂火口は、丸山に隣接する はちまき道路の内側すぐ、
となるのであろうか。

森谷氏が示す場所が、爆裂火口の一部ということはあるかもしれないが、
「火口の底」という点では異なるのではなかろうか。
そのような推察のもと、今回の探索は、
「爆裂火口の平になっている底、特に中央部付近」に
絞り行うこととした。


下馬野尾分岐から「はちまき道路」を土佐林道分岐方面に進めると
コンクリートからアスファルトに変わる箇所がある。
このあたりは山側の斜面が比較的緩やかなので、ここを取りつきとした。
また、前日に伺った久良浜神社で分かったことだが、
日当たりがよい場所はハチジョウススキの植生が濃いことから、
藪漕ぎの手間を考えて支尾根を進むこととした。※

 ※火山ガスは谷間に流れやす為、支尾根には木が枯れずに残っている。
  木々が残っていることにより下草が育たずに比較的歩きやすい。

登り始めから15分も過ぎれば火口底が右手に見えてくる。
やはりハチジョウススキの植生が濃く見通しが効かない感じだ。
火口壁の斜度はきつくはないので、火口中央まで支尾根を登ることにした。
登り始めから20分火口底へ降り始める。立ち枯れの木が至るところに見える。
ただ、すべてが枯れているわけではないようだ。
やはり藪漕ぎと、足元が見えないことで大変である。
スコリアが溜まった足元は柔らかい。流水に削られ沢状になっている個所が多い。

火口底へ降り始めて10分。火口底のほぼ中央部に着く。
シイの大木があった。形状やまわりの状況は、ほぼ記述通りである。
ただ、写真とは一部形状が異なるように見えるし、玄武岩の海礫は存在しなかった。
これをもって「神居宮」というには少し弱い気がするが、
他に該当するような大木は見いだせなかった。

やはり、結論をだすのは、森谷氏が地図に示す場所の探索後となりそうである。
1515834436-1.jpeg
【許志伎命神社旧社地考】 ( No.[40]46 )
日時: 2019/06/15 19:07:23
名前: 御津垣  ID: aXUsnc5w
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2019/06/15 19:11:00

スパムを消したことで更新していないのに
「Up」が表示されてしまったので
2017年に別所に書いていた中途半端な日記を載せておきます。

-----------------
優婆夷宝明神社に一緒に祀られている式内許志伎命神社。
もとは西山(八丈富士)の南麓甑山(こしきやま)に鎮座していたという。
江戸時代に近藤富蔵によって書かれた八丈実記にある地図には「コシキ山」との
表記を確認できる。

コシキ山の下部にある赤石はおそらく赤石山のことであり、
いまの南原スポーツ公園周辺となる。
ここには4mにおよぶ溶岩の層があり一回の噴火でできたものらしい。※1
そのような噴火があったこともあり鎮座地は溶岩層下に埋もれてしまい
正確な鎮座地はいまだに明確にになっていない。

しかしながら、赤石との位置関係、火山地質図による溶岩の流れからも
「甑山=甑峯(八丈ビューホテル付近)」ではなかろうかと推測している。※2
2017年11月当時八丈町立図書館で伺ったところ旧鎮座地の研究をされている方が
いるとのことで、すでに研究結果について何らかの論文を出されているかもしれない。

ちなみに寺山はいまもグーグルマップでも確認が出来る。
ただ、その場所には山のような地形ではない。
寺山に縁がある宗福寺住職の話によると山とは林のことであるという。
しかし江戸の地図には山の形があることを考えるといまとは場所が違うのでと
考えしまう。
また、古地図にある甑山との位置関係が異なっているように見えてしまい
謎が残ってしまう。

※1
 南海タイムス第3551号2013年1月25日

※2
 地学雑誌『八丈島、西山火山南東麓における最近2,500年間の噴出物の層序と噴火年代』には「甑峯」と記載があり「八丈ビューホテル」付近であるという。

※3
 気象庁「64.八丈島」火山地質図


写真:あとで調べて修正しておきます。
・八丈実記記載地図
1560593243-s1.jpeg 1560593243-2.jpeg 1560593243-3.jpeg
三宅島式内社加弥命神社探訪(完) ( No.[40]47 )
日時: 2020/03/01 13:22:22
名前: 御津垣  ID: wZXEwAyk
編集: 【回数】 7回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2021/01/03 15:33:17

2017年に実施した「加弥命神社」の探索であるが以下の課題が残った。
@佐藤氏、森谷氏の記述と場所が異なる
A写真とは一部異なる形状に感じられる
B玄武岩の海礫が見当たらない

これらの解決のため三宅島を再訪することとなった。


まず、@の場所に関してだが、両氏が記述し、地図に示す場所に実際に
伺ってみることとなった。
-----------------------------------------------------------------------------
「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、
山側へ西−西南方向に水平約400メートル(目測)ほど登ると、
径約60メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、
目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。
-----------------------------------------------------------------------------
前回伺った爆裂火口より雄山側に200m登る。
火口底を進むと八丈薄が邪魔でかつ最終地点までの登りが急になるので、
緩やかな地点より火口壁上部を歩くこととした。
火口壁といっても実際には確りした支尾根なので危険は少ない。
現地の状況であるが、開けた平原のような感じとなっていた。
八丈薄の植生が濃く、立ち枯れの木が多数確認できる。
ただし、どれも細く前回発見した周囲710mmの巨樹に相当するものはない。
北側は谷となっており当然火口壁は見えない。
足元の確認は薄が邪魔なので出来ていないが、
少なくとも両氏が書かれている内容とは一致しない場所であった。
よって、両氏が地図に示す場所は間違いであると判断する。

つぎにAであるが、自分では判断が難しいので第三者に意見を求めることとした。
幸い『三宅島巨樹の会』の副会長に同行意見を求めることができた。
その結果「一致する箇所が多く、写真と同一として問題はないのではないか」との
意見を得た。これで解決というわけではないのであろうがそれは後の研究に譲ろう。

最後にBであるが、これは海礫そのものを発見したことにより解決している。
前回訪問時は、手前の枯草に埋没していたが、枯草を取り除くことで発見できた。
最初に訪れた自分は何をやっていたのかという不手際である。

以上3点の課題をクリア(?)したことで、
前回発見の巨樹こそが二宮神社に合祀され、のちに御笏神社に合祀された
神居宮の旧地で間違いないと判断した。


そのうえで、文章を訂正するのであれば、以下のようになるであろう。
※全角部分の数値のみ修正
=============================================================================
「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、
山側へ西−西南方向に水平約200メートル(目測)ほど登ると、
径約90メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、
目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。
火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7メートル(目測)、
火口底にはスコリアがやわらかく積っていて、スギが植林されている。
その火口底のほほ中央に、目通り約2メートル50(目測)高さ約15メートル(目測)、
木ずえが噴火にあって枯れたような枯れ方をしているが、
この島でもちよっと見かけない程のシイの大木がある。
=============================================================================



この神居宮の発見に至ったのは佐藤・森谷両氏の時代と違って、
衛星写真などで地形の確認が容易になったこと、
火山ガスにより見通しのきく状態になったことなどがあげられる。
テクノロジーと自然現象のおかげと言っていいだろう。
ただ、それでも両氏の情報がなければ、それらを利用して
場所を特定することが出来なかった。
困難な状況のなか情報を残してくれた両氏に敬意を表したいと思う。

なお、二回目訪問の翌日、神居宮・二宮神社の合祀先である
御笏神社の壬生宮司様に御足労いただき改めて神居宮にお参りさせて頂いた。
その際この場所は現在のところ「危険地域」に該当し、
かつ簡単に伺える場所ではないことから、場所の公開はしないことになった。
式内社の巡拝をされている方々には申し訳ないが、なにとぞご了承いただきたい。


三回におよぶ探訪は、いろいろな人の協力があって成し遂げることができた。
ここに個人名をあげることは差し控えるが改めて御礼申し上げます。

<写真>
1枚目 佐藤氏著書にある神居宮
2枚目 森谷氏著書にある神居宮
3枚目 御津垣撮影 神居宮
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お初です ( No.[40]48 )
日時: 2021/05/17 16:14:16
名前: やっちぼん  ID: hqb0fgSI

初めまして。
早速ですが榛名神社について1ネタ。
榛名神社が祭典を行なう際、榛名若御子神社の氏子総代が行かなければその御戸は開かなかったという伝承が松之沢にあります。
個人的には現・榛名神社こそが式内伊香保神社に相応しいと考えますが。
お初です ( No.[40]49 )
日時: 2021/06/24 09:29:42
名前: 神楽  ID: YwL68OXI

No.48に対しての引用返信です。
>初めまして。
>早速ですが榛名神社について1ネタ。
>榛名神社が祭典を行なう際、榛名若御子神社の氏子総代が行かなければその御戸は開かなかったという伝承が松之沢にあります。
>個人的には現・榛名神社こそが式内伊香保神社に相応しいと考えますが。
>

情報ありがとうございます。
私、個人的な見解ですが同じように榛名神社は伊香保神社だった可能性は高いと思っています。ただ、伊香保神社でなくても榛名神社ではなく寺院だけだった可能性もあります。
榛名湖はかつて伊香保沼であり、あの一帯を伊香保と呼ばれていたこと、それを考えると榛名神社は椿名古墳を考えればもっと下。本郷なのかなと。本郷だとそれはそれで問題点もあるのですけどね。

当時の権力者で榛名神社側の勢力が強くなって遷されるしかなかった、なので格上だった伊香保神社の分霊社の現存が少ない理由ではないかと。伊香保・三宮・若伊香保の位置から考えれば、かつての勢力圏は広大だったと思います。
ありがとうございます ( No.[40]50 )
日時: 2021/06/26 16:25:11
名前: やっちぼん  ID: WLjwnrB2
編集: 【回数】 1回   【名前】 やっちぼん  【最終日時】 2021/06/26 16:42:53

お返事ありがとうございます。

私が気になっていることは、
@榛名という名称は延喜式が初登場であること(それ以前に使われた形跡がない)
A上野国神名帳の一宮本には「椿名」神社とあり倉渕町権田に椿名神社が実在すること
Bご指摘のように現榛名神社は寺院としての色合いが強く、また、修験道の場でもあったこと
C伊香保神社が湯前神社であったことの客観的な合理性がないこと
などでしょうか。

おっしゃるとおり、榛名神社は最初から神社ではなかったかも知れませんね。
神社にはスポンサーが不可欠で、しかし、(当然ですが)榛名には古墳がない。
地域に伊香保神社における有馬氏のような豪族がいたわけでもない。
となると・・・。

なお、高崎市箕郷町西明屋には椿山古墳という前方後円墳があります。
地域の方々はその隣りの遺構を「榛名神社の若宮」と話しています。
もっと分からなくなりますねw
ありがとうございます ( No.[40]51 )
日時: 2021/07/06 22:15:27
名前: 神楽  ID: 3HskJLDQ

榛名神社の若宮ですか?若宮ってことは若御子ということになるのかな。
そうすると推測していた辻褄が合うかも。

椿山古墳から倉渕方面が重要なのかなと個人的に思います。
考えられるのが、倉渕側から里へ下りて椿山辺りに移った。

戸・木戸の位置から考えても、権田・神戸、若神子説があるところも、権田から東へ戸が移っていますので、古墳があるから厄介ですが、古墳が後だと思えばしっくりします。
榛名神社からは結構離れていますし、烏川沿いの神社は月波神社のような関連神社とも違う感じがします。

伊香保神社が遷宮された湯泉明神は上野国神名帳記載神社で、薬神繋がり?
火災で焼失した後、湯泉明神は合祀されたとか廃絶したとか所説ありますが、恐らく合祀でしょう。
情報がありそうであまり無い伊香保は榛名より上なのに関連神社も少なく、確実に潰されていると考えています。

榛名神社は満行権現ですね。
榛名の榛は「はる」とは読みませんし、これは学者の方も指摘しています。
私の憶測ですが、椿名の勢力が乗っ取られて榛名満行権現となり、伊香保勢から勢力圏を奪い取ったのではないかと。
なので現存する椿名の方の神社はいくつかありますが、榛名と名乗る神社より古い神社だろうと思われます。

No.50に対しての引用返信です。
>お返事ありがとうございます。
>
>私が気になっていることは、
>@榛名という名称は延喜式が初登場であること(それ以前に使われた形跡がない)
>A上野国神名帳の一宮本には「椿名」神社とあり倉渕町権田に椿名神社が実在すること
>Bご指摘のように現榛名神社は寺院としての色合いが強く、また、修験道の場でもあったこと
>C伊香保神社が湯前神社であったことの客観的な合理性がないこと
>などでしょうか。
>
>おっしゃるとおり、榛名神社は最初から神社ではなかったかも知れませんね。
>神社にはスポンサーが不可欠で、しかし、(当然ですが)榛名には古墳がない。
>地域に伊香保神社における有馬氏のような豪族がいたわけでもない。
>となると・・・。
>
>なお、高崎市箕郷町西明屋には椿山古墳という前方後円墳があります。
>地域の方々はその隣りの遺構を「榛名神社の若宮」と話しています。
>もっと分からなくなりますねw
>
ありがとうございます ( No.[40]52 )
日時: 2021/07/10 10:42:14
名前: やっちぼん  ID: zBXDmGzI

お返事ありがとうございます。

実は最近になって上野国交替実録帳の存在を知りました。
不勉強、お恥ずかしい限りです。
なんでも国司交替の際の引継ぎ書の草案で西暦1030年に書かれたものとか。
写本ではなく延喜式・九条家本の紙背というのが驚きでした。
そこに群馬郡の有力な神社として四社が記載されています。
?は判読不明部分です。

神社学校院像禮服祭器雑物破損無実事 項

「正一位 伊賀保明神社」
「正?位 宿祢明神社」
「正?位 若伊賀保社」
「正?位 椿榛明神社」

椿榛!
この名称は複数回登場しますので誤記の可能性は低いです。
すると当時「椿榛」という名称の神社が存在したことになります。
これが椿名神社と榛名神社に分裂したのかしら。

椿と榛は茶道においてペアで使われることが多い花材です。
このあたりもヒントになりそうですね。
ありがとうございます ( No.[40]53 )
日時: 2021/07/12 21:27:01
名前: 神楽  ID: nLzVee0k

情報ありがとうございます。
椿榛とうい文字はどこかで見た覚えがありますが、茶道からの視点はまったくありませんでした。

榛名関連の資料は持っていたはずなのですが、上野国だけでも膨大な量を紙ベースで持っているので探し出せません。
ただ、一時椿名の名前が消え、急に榛名満行が出てきたように覚えています。

伊香保沼と描かれた古地図だけ出てきたので貼っときます。

No.52に対しての引用返信です。
>お返事ありがとうございます。
>
>実は最近になって上野国交替実録帳の存在を知りました。
>不勉強、お恥ずかしい限りです。
>なんでも国司交替の際の引継ぎ書の草案で西暦1030年に書かれたものとか。
>写本ではなく延喜式・九条家本の紙背というのが驚きでした。
>そこに群馬郡の有力な神社として四社が記載されています。
>?は判読不明部分です。
>
>神社学校院像禮服祭器雑物破損無実事 項
>
>「正一位 伊賀保明神社」
>「正?位 宿祢明神社」
>「正?位 若伊賀保社」
>「正?位 椿榛明神社」
>
>椿榛!
>この名称は複数回登場しますので誤記の可能性は低いです。
>すると当時「椿榛」という名称の神社が存在したことになります。
>これが椿名神社と榛名神社に分裂したのかしら。
>
>椿と榛は茶道においてペアで使われることが多い花材です。
>このあたりもヒントになりそうですね。
1626092821-s1.png
ありがとうございます ( No.[40]54 )
日時: 2021/07/13 18:09:00
名前: やっちぼん  ID: 2dJhrF3M
編集: 【回数】 1回   【名前】 やっちぼん  【最終日時】 2021/07/13 18:10:01

お返事ありがとうございます。
これ以上お時間を頂くのも心苦しいのでこの辺にしようと思いますがw
浅間大明神について。
元禄国絵図に記されているその文字、お社の絵、天保国絵図にも記されています。
1838年の完成ですから、もし天明の大噴火で流出したのであれば抹消されてるはず。
確かに下図となったのは噴火前の測量ですが、幕府から新たに要望されて現状と異なる古い資料を提出するでしょうか。
私はきっとどこかに浅間大明神のお社が眠っていると信じています。
ありがとうございます ( No.[40]55 )
日時: 2021/07/15 19:29:53
名前: 神楽  ID: zkixXFws

確かに浅間大明神は描かれていますね。
私も写真持っています。
発掘調査でも、浅間大明神への道しるべが発見されています。
私の考えだと噴火で廃絶。
論社は浅間信仰ブームのときに名乗ったか、浅間大明神の分霊社・・・若御子が無いから多分前社かなぁ。
倉渕のは影の方だと思います。

No.54に対しての引用返信です。
>お返事ありがとうございます。
>これ以上お時間を頂くのも心苦しいのでこの辺にしようと思いますがw
>浅間大明神について。
>元禄国絵図に記されているその文字、お社の絵、天保国絵図にも記されています。
>1838年の完成ですから、もし天明の大噴火で流出したのであれば抹消されてるはず。
>確かに下図となったのは噴火前の測量ですが、幕府から新たに要望されて現状と異なる古い資料を提出するでしょうか。
>私はきっとどこかに浅間大明神のお社が眠っていると信じています。
御岩山中の薩都大神と石甕1 序章 ( No.[40]56 )
日時: 2022/05/07 18:40:55
名前: 御津垣  ID: XROGybl2
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/05/13 15:46:07

水戸領地地理誌(水府志料)では入四間山の項において、
薩都明神の奥院(薩都神社磐座=薩都大神のこと)についての記述を見つけることができる。

<入四間山> ※句読点、ハイフンは読みやすく追記しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
宿内より高三十町余、方一里余、往古種々の奇瑞あり、
寛永七庚午年より、此山上へ湯殿権現を移して、猥りに登山を不許、
山中に胎内くくり、護摩壇石、梵天石、ちゃたん石、天狗の巌谷、雷神の岩谷など云ふ大石あり、
又方四五尺許の岩あり、中窪かにして霊水湧出る、是則当山の奥の院なり。
---------------------------------------------------------------------------
又大岩高一丈三四尺余、廻り五丈余あり、中間に方二尺許の穴あり、
是薩都明神の奥院といふ、其側に二つの石甕あり、明神祭日に、
此かめにて酒を造り供ふるよし、右甕古へは陶器なるか、其後石に換たるよし。
---------------------------------------------------------------------------
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以前に見出した薩都神社の磐座の根拠は、
古地図と名称が分かっている巨石の位置関係であったが
上記にある石甕が見つけることができればより根拠として深みがでる。
そのような考えのもと御岩山中の調査をすることとなったのは2016年の春であった(※1)。

※1当時は山中の規制はありませんでしたが、現在は立ち入り禁止エリアです。

〜つづく〜
御岩山中の薩都大神と石甕2 発見 ( No.[40]57 )
日時: 2022/05/07 18:51:11
名前: 御津垣  ID: XROGybl2
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/05/13 15:46:29

イワウチワの時期にはまだはやい肌寒いなか山中に入る。
鳥居から目的地まで人に会うことはない。
静寂のなか7年ぶりの薩都大神との対面である。
調査に入る前に参拝。形式的なことかもしれないが、
事故を未然に防ぐ気構えと、信仰の対象としている方々への配慮でもある。

磐座や、隣の梵天石の岩上にはなにも見出せない。
岩陰など祭祀があったかもしれない場所などでもやはり見つけることは出来なった。
そのため落下の可能性を考えて直下の谷筋を調査することにした。

直接谷に降りることはできない。
向かいの支尾根を使いだいぶ山を降りてから谷筋を登り返す。
何かしらの工事で使ったのか廃タイヤや、倒木が行く手を塞ぐ。
幸い涸れ谷であり、足元は滑ることはなかった。

登ること数十分、明らかに他とは異なる形状の岩を見つける。
人の手が入っている器の一部だ。厚みは30mmほどある。
持ち上げてしまってから発見時の写真が必要かと思い
もとの位置に戻して改めて写真を撮影する。
その後も谷筋の調査をつづけたが、成果は上がらず
時間も結構経っていることもあり下山することとした。

社務所に寄ったところ大塚宮司様がいらっしゃったので
発見の経緯をお話して、現物を奉納させて頂いた。
正直半信半疑だったが、喜んで頂けたので苦労も報われた。

写真
・薩都神社磐座から直下の谷
・石甕欠片

〜つづく〜
1651917071-1.jpeg 1651917071-2.jpeg
御岩山中の薩都大神と石甕3 再探索 ( No.[40]58 )
日時: 2022/05/13 15:41:29
名前: 御津垣  ID: r3Zxei7.
編集: 【回数】 5回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/05/14 06:55:59

石甕の欠片を発見してから数年、
大塚宮司様と残りの部位を探そうとの話になる。

暖かくなるといろいろ動物や昆虫がでてくるので
谷筋に降りるのが躊躇われる。
そのため前回発見時と同じ季節に再調査を行うこととなった。

ただ、お忙しい宮司様の日時に合わせるのが難しい。
平日有休をとって伺うこととした。

社務所前で集合、籠を背負う姿がレアだ。
天気もよく探索日和だ。花粉症の自分には少々きつい。
早速現地に向かう。
表参道より賀毘禮神宮〜天の岩戸〜真崎稲荷、白狐稲荷など
諸々の霊場を経由するルートとした。
天の岩戸では、清掃ののちに大祓詞の奏上。
大塚宮司様の大祓詞。自分は低頭のみ。
御岩神社特有の文言もあるので、知らないと合わせられない。

薩都大神に到着後にも大祓詞の奏上。
厳かな気持ちで低頭。また、探索の無事を祈念する。
そういえば、薩都大神(磐座)や、奥宮を探すきっかけは
大塚宮司様から頂いた文庫本だった。
この場に二人でいることがとても感慨深い。

まずは、前回発見した谷筋に降りて、発見場所まで案内する。
発見場所が分かるようにビニールをつけておいたのだが
なんとか朽ちずに残っていた。
発見場所を前後するように谷筋の探索を始める。
前回も相当探しているつもりであるが見落しがないとは限らない。

谷上部は十分に探したので、薩都大神の山側に探索範囲を広げる。
磐座群に近い急斜面に至ったところで、平たい岩を見つける。
通常の岩ではない。大きさに対して重量もある。
前回発見したと同じような感覚である。
円形の土台の欠片か。円の2/3程度の大きさ。
谷筋で探索を続ける大塚宮司様に声をかける。
急いで登ってこられる宮司様に発見したものを手渡す。
感じるものがあったのか、うなずいておられる。
石甕を置く土台ではないかという自分の推測を伝える。

改めてこの岩の発見場所付近を重点的に探索することとした。
その下部を探ると円の残り部分を発見する。
先ほどのと合わせると完全な円形である。
目的としていた石甕の欠片は見つかっていない。
水府志料通りであれば石甕は2つあるはず。
さらに言えば今回の円形の岩は認識していなかったので、石甕とセットであるはずである。

花粉症がしんどい。
休憩をはさみながら探索を続けるがその後発見は続かない。
諦めかけたところ、地中から少し顔を出していた岩を掴んで引っ張ってみる。
自然石かと思ったが、土がとれた形状は甕の一部だった。
大塚宮司様が、先ほどの円形の岩を石甕の縁に合わせてみる。
そのうえで、土台ではなく蓋ではないかという推測をされた。
確かに形状や大きさ的には蓋のがシックリくる。

大分探索したことから、今回はこれ以上の成果はないと
判断して山を降りることとした。
復路は別ルートで、谷筋に降りて御岩神社に回ることとした。
途中、薩都神社奥宮に立ち寄り大祓詞奏上となった。

社務所に到着して、前回発見した石甕の一部と合わせると
ピッタリとはまったが、残念ながら一部欠損している状態であった。

残りの部位については、後日ということで
今回の探索は終了することとなった。

季節的にも次回は来年と、お暇することとした。

写真
・石甕と石蓋 ※左下白いものは前回の欠片
・石甕と石蓋 ※右のものが前回の欠片

〜つづく〜
1652424089-s1.jpeg 1652424089-s2.jpeg
御岩山中の薩都大神と石甕4 再々探査(完) ( No.[40]59 )
日時: 2022/05/21 11:24:38
名前: 御津垣  ID: MpapeaZs
編集: 【回数】 4回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/07/24 12:27:07

石甕の探索から戻った翌日、
職場から帰宅して寛いでいるところに
大塚宮司様から連絡がある。

ボランティアの方が、残りの欠片を探したいとのことだ。
来年のつもりであったが、急遽週末に伺うことととした。

雨が降りそうな空模様である。
今回の参会者は(お名前は伏せさせて頂くが)ボランティアの方2名。
前回同様に社務所前に集合。
簡単な挨拶の後、山中に向けて移動する。

参拝者が多いので、前回のような目立つルートは使えない。
2人はボランティアの腕章をつけているので立ち入り禁止エリアに入っても
どうこう言われることはないが、
その先になにかあるのではないかという興味をひかれてしまうと
侵入して事故につながりかねない。
別ルートを使って人目につかないようにするようにした。
倒木が大変なんですが。。。

今回の探索では、石甕が
薩都大神または隣接する御神酒岩から谷に落ちて分裂したと想定して
前回までの発見場所に棒を立てることにした。
探索する範囲を絞ることもできる。

到着後に、簡単に前回までの状況や、磐座の説明をして作業を開始する。
谷底から磐座群、発見場所の位置関係が一見して分かるようになった。

お二人と一緒に転がっている石や草むらの下など確認する。
なかなか見つからない。
欠片だけでなくもう一つ石甕も存在するはずなのだが。
そうこうしているうちに雨が落ちてくる。

薩都大神と谷筋の中間にある支尾根へのトラバース地点は
若干の窪地となっており、落ち葉が溜まりやすいのか腐葉土のようになっている。
その位置で石甕の落下する様子をシミュレートする。
若干放射状に分散はされても、きわめて指向性がある。
前回までの発見場所を考えると草むらの位置は該当しない。
人為的に投げ捨てられでもしない限り。

ふとその場で若干丸くなっている岩を見つける。
地中に大部分が埋まっていて大きさは分からない。
同じようなものはいままであったので、どうせ同じものだろうと持ち上げる。
意外と簡単に持ち上がる。
あっけないものであるが、それが目的としていた石甕の最後のピースであった。
この場所、掘ればまだ他に見つかるのかもと思ったが、
スコップなどは持ってきていないのでそれは諦めた。

お二人をお呼びして、石甕の欠片をお渡しする。
感動されておられたが、雨足が強くなったので、下山することとした。

途中、宮司様の許可があったので
薩都神社奥宮にご案内するが、石甕以上に感動されておられた。
なにかこちらの方向から見守れていた感じがしたとのことだ。
敬神の念の厚い方々である。
きっと、今後も御岩山を、参拝者の方々を守っていってくださるだろう。

この場所もパトロールの範囲に入るだろう。
結構昔にあった姥神の盗難未遂※のようなことは防ぐことができるだろう。
知らない間に倒れていて、たまたま来た自分が立て直しとかそんなことはなくなる(;^_^A

※かつては姥神跡に祀られていたが、盗難されそうになった。
 下山中に発覚し未遂となる。
 そのため今は、姥神跡からおろされ、レプリカが御岩神社脇に祀ってある。

さて、社務所に到着して、宮司様に発見を報告。
あまり期待はしていなかったのか驚いておられた。
水道をお借りして欠片の土を落とす。
奥から前回までの欠片を持ってこられたので合わせてみる。
甕底に不自然な凹みがあるが、
発見できる石甕と蓋のピースとしてはこれで全部となるであろう。

不自然な凹みは人為的なものが感じる。
後日別の方々から助言を頂いたが、
たしかに「かわらけ」などでは祭祀の後に割ることもあるが、
さすがにこの厚さのある石甕を割ることはあるまいと思っている。
むしろ植木鉢にちょうどいいから底を開けようとして
失敗して割れたので捨てたのではないか?
というような悪意を感じてしまうのは人間ができていないからかな・・・

雨も強いのと、自宅が遠いのでこれでお暇することとした。
ボランティアの方々とは昼食を御一緒させて頂いた。
遭難騒ぎや、御岩山の状況などお聞きでき楽しいひと時であった。


〜後日談〜
大塚宮司様から電話連絡
1.古老から聞いたところ、やはり2つの石甕があったとのこと。
2.日立市郷土博物館学芸員に見ていただいたところ
  ・年代は江戸中期ごろ。
  ・材質は町屋石。
  ・石甕というより石櫃と呼ぶのではなかろうか。
  とのことであった。

  町屋石は、常陸太田市町屋町でかつて産出していた石。
  水戸藩御用達の石で、一般領民の採取を禁じていたらしい。
  水戸徳川藩の墓石にも用いられている。

水府領志が、小宮山楓軒編纂なので、おおよそ年代は合っていると思える。
確実というわけではないが、記述の石甕ではないかと推測している。

それより素材が町屋石というところが驚きである。
御岩山・薩都神社がそれだけ水戸藩とのつながりがあったということであろう。


さて、さらにその後の話だが、
2回ほど探索を行っているがもうひとつの石甕発見には至っていない。
見つけたのは「かわらけ」と「寛永通宝(水戸銭)」くらいで、
湿気のない地中にあったもの以外は状態が悪いものであった。

この辺りを確認には、
昔ロッククライミングをされていた山岳会などにお聞きするのがいいのだろうが
立ち入り禁止になっていることもあるので状況的に難しいだろうな。。。
近くに瑞牆山みたいのがあったらよかったのだが。

写真
・石甕 下の大きな欠片が今回発見部位
・石甕に蓋をしたところ
1653099878-s1.jpeg 1653099878-s2.jpeg
信濃国国史現在社 名立神社 ( No.[40]60 )
日時: 2023/12/10 15:25:44
名前: 御津垣  ID: MqqKZtR.
編集: 【回数】 3回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2023/12/10 15:33:29

信濃国の国史現在社『名立神社』の論社は三社ある。
一つ目は「長野市松代町牧島字中組」の名立神社
二つ目は「飯山市照岡字大門495」の名立神社

それぞれ御祭神は
・健御名方命、五十猛命
・健御名方富命、木花開邪姫命、大山祇命
であるが、肝心なもう一社、名立神の最有力候補であったと言われていた
中野市穴田鎮座の名立神社が見つけられずにいた。

穴田には八幡神社があるのでこちらに合祀されたのではないか
という可能性も含めて確認していたが、
とくにそのような由緒は見つけることができなかった。

このような時(その場所にあるという情報はあるのに見つけることができない)に
確認しているのが「遺跡発掘の報告書」の類である。
遺跡の発掘において、祭祀的なものがあったのか否かは必ずと言っていいほど
触れられる内容であり、近隣の神社のとの考察などの記述もあり
有力な情報源となっている。

中野市穴田の遺跡発掘関係の資料は、
上信越自動車道建設に関わるものが多いように感じたが
その上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書「中野市内その3・豊田村内」に、
名立神社跡の写真と、
以下の文を見出すことができた。

<上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書14 -中野市内その3・豊田村内->
==============================================
〜第4節 名立神社跡等の確認調査〜
試掘B地点は栗岩英治が名立神社跡と推定した場所で、
通称「いわし山」と呼ばれている。
名立神社は『三代実録』貞観7年(865年)7月26日の条に記述があり、
神社の場所は確定されていない。
確認調査は十字にトレンチを入れた後、重機で平坦面の表土を争Jぎ、
さらに2m四方の試掘坑を設定して掘り下げたが、
かんざし、陶器片が出土したのみで、平安時代にさかのぼる遺物や
神社信仰にかかわる遺物は出土せず、遺構も検出されなかった。
栗岩氏の考定は証明されなかったが、
今回の調査結果のみでこの地が名立神社であったことを
完全に否定したともいえないだろう。
また、史料内容からすれば、この地への比定は、
それほど根拠のあったこととは思われない。
しかし、古東山道支道や同時期の集落に関して、
周辺では考古学的情報がほとんど蓄積されておらず、
この問題に関しては後考に待つほかはない。
このことは周辺で出土している平安時代遺物をどのように
意味付けるかという点にかかわろう。
==============================================

また遺跡分布図や大谷地遺跡・八号提遺跡調査範囲図から
おおよその「いわし山」の位置も掴めることができた。


なお、栗岩英治氏の論文は以下に見ることができる
<史蹟名勝天然記念物調査報告 第23輯『六國史所載、名立神址』>

これには
・穴田鎮座とした理由や、
・名立の謂われなどの考察
 ⇒アイヌ語の幣「いなを」の略したもの、「いな」を立てる所
穴田鎮座については更に
@名立の謂われと地名との関連から
 稲尾澤の頂上付近「「いはし山(原文ママ)」を鎮座地としたこと
Aいはし山は、すなわち岩清水山、岩清水八幡社(原文ママ)の鎮座地であり
 穴田村の伝承から現在の『八幡神社』の旧鎮座地
を見ることができる。

以上の考察の結果
名立神はこの八幡社であると推定、「岩清水山=いはし山=いわし山」こそ
名立神社址に外ならないと結んでいる。

そうなると
この石祠は麓にある八幡神社の元宮でもあるのであろう。
また、栗岩氏の推測をもとにするのであれば
八幡神社は名立神社の後継社ということにもなるのかもしれない。
このあたりは別の機会に八幡神社の関係者に伺ってみようと思っている。

さて、以上の情報をもとに現地の調査に赴くわけである。
結論からいうと推測地こそが正解であったのであるが、
初回の調査では石祠を見つけることができなかった。
これは草に覆われていたこともあるが、
調査位置を集落に近い谷側にフォーカスしてしまったからである。
(実際には山側 上信越自動車道に面した いわし山の端にあった)

近隣で聞き込みを行うも『名立神』についてご存知な方は皆無だったが、
いわし山の石祠の写真で「定期的に集まって刈払いしている場所である」という
情報を入手できた。
ただ、地図上でご教授頂いたポイントと実際のポイントがずれていたため
数日別の山林をさまようこととなった。
最後にお会いした方から「いわし山」の正確な位置と、
石祠の立地をお聞きしてようやくたどり着くことができたわけである。

なお、グーグルのストリートビューでは
上信越自動車道から石祠を確認することもできる。

写真
1枚目:上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書14 -中野市内その3・豊田村内-掲載写真

2枚目:2021年11月ころの石祠
1702189544-1.jpeg 1702189544-2.jpeg
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