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関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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筑前・肥前紀行 2日目(背振神社下宮) ( No.[10]12 )
日時: 2009/12/16 21:15:07
名前: 御津垣  ID: tGzyF89k

「背振神社(せふりじんじゃ)下宮」

−御由緒(背振神社(下宮)由来より)−
 日本六所弁財天の一社「背振弁財天」といわれ御祭神は市杵島姫命
 外の女神弁財天は仏教伝来後合祀されたという
 そのお使いといわれる白蛇が境内向って右側の石窟に棲んでいるので
 俗に『はくじゃさん』とも呼び伝へられている。
 神佛混合の昔は同一境内に下宮と多聞坊東門寺が並び建っていたが、
 明治七年の佐賀の乱で焼失し現在の社殿はその後再建されたものである。
 五穀豊穣開運財運の神様として崇敬を集め県内をはじめ九州一円から、
 参詣がある。


日本三代実録において、貞観12年(870)5月29日の条に、
筑前国正六位上 背布利神が従五位下に昇叙されたのが、背振山頂上に
鎮座する背振神社上宮にあたる。
その上宮を管理しているのが、脊振町服巻に鎮座する下宮になる。

さて、ここで筑前なのになぜ佐賀か?というところが疑問になるところであるが、
 上宮鎮座地はもともとは筑前国の範囲であった。
 上宮の管理は、筑前側の勢力下(東門寺)にあった。
などと考えてもいいのではないか。
その後の佐賀・福岡藩で国境争い、元禄6年(1693)の幕府の裁定によって、
佐賀藩側に属し、佐賀県となったとみられる。


櫛田宮から、とくに迷うことなく到着。
途中「九年庵」の一般公開の渋滞にはまいったが。
(当時は、「何があるんだろう?」という状態であった。)

すでに、9割は曇り。それに寒い。
この後 頂上の上宮にも伺う予定である。早々に参拝と写真撮影をしてしまおう。

七五三の御祈祷が終わったところなのか?
一組の家族が境内で写真撮影をしていた。
邪魔にならないように、お参りさせてもらう。

しかしながらすでに、ご神職の姿は見えない。社務所に戻られたのだろう。
写真撮影の後、石段下の立派な社務所に伺ってみるが、人の気配はしない。
ではと、駐車場前の民家に回ってみる。注連縄がかかっていることもあり、
宮司様のご自宅と思ったからだ。
幸い宮司様はいらっしゃったが、どうもすぐに出かけるようである。
なんとか、御朱印を分けて頂く。ゆっくりお話を伺える状態ではないが、
ともかく、頂上の上宮がこちらで管理しているものであることは確認がとれた。

その後、車に向かう。
自転車で坂道を上がってきた人が、神社の鳥居で写真を撮影していた。
「へー、ここでも自転車でヒルクライムやっているのか。ここが目的地かな?」
そんな感じで見ていたのだが。。。


さあ、最後の上宮である。



つづく
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