- 日時: 2012/04/21 19:59:28
- 名前: 御津垣 ID: a4pDPiV6
- 編集: 【回数】 7回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2012/04/22 10:08:24
- 4日目 その1。
中ノ島の朝。今日は、中ノ島・知夫里島を巡る予定である。 昨日と違って、幾分寂しい一人旅に戻った。
早々にチェックアウトし、レンタカー事務所に向かう。 菱浦港云々と書かれていたので港施設「承久海道キンニャモニャセンター」 内を探す。しかし、それらしいものは見当たらない。
仕方ないとPCを立ち上げて場所を確認する。 どうやら港前の施設らしい。 改めてそちらに向かう。丁度 職員の方がレンタカーを整理している。 事務所は二階らしい。手続きを済ませレンタカーを借りる。 ちなみにここは島後でも借りたレンタカー会社であるが、 レンタカーの質はいまいちである。 ナビもゴリラの旧型で操作性も悪く見難い。使用は諦めた。 スマホのナビを使用して目的地に向かう。
『隠岐神社』8:50
後鳥羽院 小倉百人一首99 「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故 もの思ふ身は」
−人を愛おしく思うことがあれば、また人を恨めしいと思うこともある。 つまらないことにこの世をあれこれと思うがゆえに思い悩むのであろう。 この身は。
承久の乱にて隠岐に流され、この地で崩御された後鳥羽天皇を祀る神社である。 隠岐に来る前に出家してるので、正確には後鳥羽法皇なのであろう。
神社の略由緒には次のようにある。 江戸時代初期に火葬塚は御廟として整備される。 末期には御廟は痛みも激しく、源福寺と村人等が相談し祠を建てお祀りした。 その後 水無瀬神宮※に遷座し祠は取り払われる。 紀元2600年の事業の一つとして、昭和14年に創建される。
ちなみに三種の神器がなくても即位されている正統な天皇である。 (はて、南朝正統論の根拠はなんであったか?)
さて、雲の上のことはともかく、歌人やその業績の方が自分には興味がある。 藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に撰者の 院宣を下した、勅撰和歌集『新古今和歌集』は言うまでもない。 隠岐での生活も、不自由なものであったらしいが、和歌を生きがいとして、 時折 都より送られてくる歌を批評する生活を送られたようである。
また祠を建てお祀りしたように後鳥羽天皇は、 その後も島民に愛されていたようで中ノ島で詠まれた歌は、 後鳥羽院遠島百首、「遠島百首かるた」として今の世でも人々に親しまれている。 「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」
拝殿の佇まいは、江戸以降に相次いで創建された神社のような感じである。 本殿は見ることはできないが、隠岐造りとある。
さて、ひぐらしさんが事前に連絡を入れて下さっていたのだが、 ご神職の姿はどこにも見えない。 連絡を入れて 御朱印を分けてほしい旨を伝える。 やがて、宮司さんがお戻りになり 次に伺う『宇受賀命神社』と合わせて御朱印を分けて頂いた。
ちなみに後鳥羽天皇の第三皇子 順徳天皇も 承久の乱で佐渡に流されているが、 同じく小倉百人一首にその一首が採録されている。 順徳院 小倉百人一首100 「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」
※ 1494年に後土御門天皇によって隠岐より後鳥羽天皇の神霊を迎え、水無瀬宮の神号を奉じる。 由緒にあるのは官幣中社に列格時のようである。 つまり2回神霊を迎えているということらしい。
水無瀬神宮の御祭神は、承久の乱に関わる三上皇である。 後鳥羽天皇:隠岐に配流。 土御門天皇:後鳥羽天皇の第一皇子。土佐に配流、のち阿波。幕府は厚遇。 順徳天皇: 後鳥羽天皇の第三皇子。佐渡に配流。
写真 社号標 拝殿 御火葬塚
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