- 日時: 2012/04/23 10:24:37
- 名前: 御津垣 ID: VYI09vps
- 編集: 【回数】 2回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2012/06/06 21:55:03
- 4日目 その2。
隠岐神社を後に、島の北端「宇受賀」を目指す。 県道317号線より途中 海士小学校を越えたところで左折し 宇受賀地区に向かう。 左手に住宅地を見ながら走る先に鳥居が見えた。
『宇受賀命神社』9:35 中ノ島 宇受賀地区に鎮座。 隠岐に四つある名神大社の一つである。
〜隠岐神社HPより〜 島内の伝説には、西ノ島の神社の神さま 比奈麻治比賣命の美しさにひかれた宇受賀命は、 同じく姫に求婚する大山神社の神さまとの力比べに勝利したことにより、姫と結ばれたとあります。 そして、この姫との間に御子神 柳井姫、その御子神は同じ島の豊田地区にある 奈伎良比賣神社の御祭神になったとされています。
刈り取られた水田の中に、長く細い参道と白い鳥居。 丘上には拝殿と、その屋根の上に隠岐造の本殿を見ることができる。
社家は、宇津賀氏、今の村尾氏が継承している。 (現在は隠岐神社が本務のようである)
燈籠の脇にある農作業用スペースに駐車して参拝に向かう。 二の鳥居までのコンクリートの参道には、奉納幟を立てる鉄ポールが並ぶが、 その他は、参道というより軽トラックを乗り入れる農道といった感じである。 農繁期には、そのように使うこともあるのであろう。
二の鳥居を潜ると真新しい狛犬たちが迎えてくれる。 拝殿・幣殿は瓦葺である。目だった特徴といったものはない。 本殿は、銅板葺の三間社隠岐造。拝殿より一つ高い台地に建っている。 昭和37年までは茅葺だったようであるが、その面影を見ることはできない。
拝殿前には神社の説明とは別に看板があり、海士町の有形文化財の記述がある。 『有形文化財 書籍第一号「大般若経」』とある。 中世期に入って地方の社寺で行われるようになった大般若経の転読は この宇受賀命神社でも行われ、五穀豊穣のご祈祷として恒例の祭事として 執行されていたようである。
宇受賀神社を後に、島の西へ向かう。 牧場地帯の細い道路を通り県道317号線に戻る。 金光寺山を大分過ぎてから通り過ぎたことに気づき反転する。 まもなく豊田地区の看板を見付け右折する。 地区の中心地 港まで進み 山側にようやく鳥居を見つけることができた。
『奈伎良比賣命神社』10:00 中ノ島 豊田地区に鎮座。
〜隠岐神社HPより〜 「名神大社 宇受賀命神社」の御子神とされる神社。 伝説によると、御祭神の奈伎良姫は伊予の国から出航したところ、 日本海を航行中に暴風雨にあって方向を見失われました。 困っていると、はるか彼方に火の明りが見えたので、 これに向かって船を進めたところ、無事に島にたどりつくことができました。 翌日、仮の宿から集落を眺めると、朝日を拝む、海に開けた土地でありました。 姫はこの場所をたいそうお気に入りになり、 豊かに稲がみのる場所 豊田(とよだ)と命名し、ここに社を建て、 産土神として鎮まることとなったそうです。 一部の説には、奈伎良姫は柳井姫の別称であるともされています。 いずれにしても、農林漁業の幸と航海安全の女神とされ、 また安産、子育ての神とされ信仰されています。
奈伎良姫は柳井姫の別称とあるが、 国内神名帳では 「奈伎良姫大明神(従一位)」と「柳井姫大明神(従四位上)」 のように別に記載があるのだが?
社頭のちょっと広くなっているスペースに車を停めて参拝に向かう。 二の鳥居の脇に駐車場もあったのだが、事前に知らずにここまで 車を入れる気はおきない。西ノ島での出来事の影響であろう。
参集所らしきものもあるが、なにか新興宗教的な香りを放つマークが見える。 こちらの神社も隠岐神社の兼務社なので、神職が常駐しているわけではないが、 参拝後に寄る事にして神社に向かう。
境内は雑草はなく、苔生した趣のある景観である。 苔生すとあるように湿気が多いようで、拝殿・本殿に傷みが感じられた。 また、夏は藪蚊が大変であろうと変な想像も巡らせてしまう。
参拝後、参集所に向かう。 扉には鍵が掛かっており、呼び鈴にも反応はなかった。 駐車場には一台軽自動車が停まっていたのだが。。。
さて、中ノ島豊田といえば、「小野篁(おのたかむら)」であろう。 平安時代前期の官人であるが、古今和歌集や百人一首にもその作が 採録されている歌人でもある。
遣唐正使 藤原常嗣により、副史 篁の船と交換されることとなり、 これに抗議、病身などを理由に乗船を拒否する。 その後、大宰府で嵯峨上皇を諷する漢詩を作り、上皇の怒りに触れて 官位を剥奪され隠岐に配流となった。
豊田地区には、その篁の住居跡がある。 また、この地で詠まれたという歌が古今和歌集に採録されている。
古今和歌集 巻十八 「思ひきや ひなの別れに 衰へて あまの縄たき 漁りせむとは」 −考えてもみなかったことだ。鄙びた田舎で心身ともに弱り果て、 漁師の網を使って魚を取ろうとは。
なお、近くの『金光寺山』六所権現では、 百日の参籠祈願を行っているらしい。「都に還らせ給え」と。 その後、島後の那久光山寺(壇鏡神社の近く)に移り、 都万目の娘で阿古那(あこな)との悲恋物語の伝説を残しているようである。
ちなみに隠岐へ配流される際に詠まれた歌もある。 参議篁 小倉百人一首11 「和田の原 八十嶋かけて 漕出でぬと 人にはつげよ 海士の釣舟」 −とおく海原をたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまった。 そのように都にいる人々に伝えてくれ。漁師の釣り船よ。
難波で詠まれたものであるとされるが、 漢詩は大宰府で作ったというのと一致しないのではないか? 一旦、都に戻っているのか。
『健須佐雄神社』10:20 中ノ島 海士地区に鎮座。 「日本三代実録巻四十五元慶八年三月廿七日戊子」に 神位従五位下を賜っている由緒のある神社である。
海士中学校の南側であるが、鳥居は山の中腹にあり木々に覆われていて 近づかないと見知ることはできない。
農業水路脇に車を停めて階段を登る。 結構長く感じたが、3分程で拝殿に到着する。 途中 鳥居の扁額には「新宮神社」とあった。 拝殿外側には特に神社名を示すものはない。 賽銭箱もないので拝殿の扉を開けさせて頂く。 同時に「健須佐雄神社」という額を見つけ胸をなでおろす。
この後、連絡船の時間もあったので隠岐神社に戻り御火葬塚などを見学する。 レンタカー返却後は、「キンニャモニャセンター」で昼食を摂ることに。 名物の「寒シマメ丼」を食す。
写真 宇受賀命神社 奈伎良比賣命神社 健須佐雄神社
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