- 日時: 2015/01/16 22:14:28
- 名前: 御津垣 ID: THGMBmTA
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【名前】 御津垣 【最終日時】 2015/01/16 22:16:10
- 鹿島神社
【御祭神】武甕槌神・建御名方神 【祭祀】 例祭 10月17日 【鎮座地】東茨城郡城里町上古内238(旧常北町) 【旧社格】村社
『茨城の史跡と伝説』より。 東茨城郡常北町(旧西郷村)は朝房山の北麓一帯をしめ、和名抄にいう那賀郡鹿島郷の地に当たり、 大字古内は朝房山の古名フジフジの名残りといわれている。 ここらあたりを鹿島郷と名付けたわけは、二十年目ごとに造営する定めになっている鹿島神宮修造の材木を伐り出す。 ”宮材之山”であるからである。六国史の中に三代実録貞観八年正月の条下に 「是より先、常陸国鹿島神宮司云ふ、鹿島大神宮惣六箇院、二十年間に一度修造を加ふ、 所用材木五万余枝採造する宮材之山は那賀郡に在り、宮を去る二百余里(六町一里)行路険峻、 挽運の煩ひ多し」とあり、五万余枝の宮材というのは栗材である。 鹿島は空気が多量の塩分を含んでいるので、栗材でないと二十年は保てない。 それで遠隔地であり、道も険悪であるが、栗の木が多いこの地方が、”宮材之山”に選ばれたわけである。 だがそれだけではなく、鹿島大明神は奥州塩釜から”金の鷲”に乗って初めて常陸の国に来られたが、 その天降られた地が”常陸国中郡古内山”※2であるというのである。 この伝承は、僧円禎が延文三年に編んだ『安居院神道集』の中に 「鹿島大明神は天津児屋根命金鷲に駕して常陸国へ天降りつつ古内山の旧跡鹿島の里に顕る」とか 「其後国中を廻り、鹿島郡宮処に御在所を定む」とか、鹿島大明神と天津児屋根命とまぜこぜにしながら書き留めている。
※1 祭神が降臨したという伝承の古内山の地は、「鹿島土屋(土谷とも)」と称される。
郷土の伝説を、声を大にするわけでもないが誇りを持って守っている感がある。 神社に向かって右側の山は、三代実録にある栗材を工面した土地であるという。
地元の古老が言うことには、 「子供の頃は、自分の背丈ほどの(直径の)栗があり、よく伐採を手伝わされた」 とのことである。残念なことに、今はそのような大木を見つけることはできない。
鹿島土屋(かしまどや)の伝承地は、今は私有地内となっている。
[卷十二貞觀八年(866)正月廿日丁酉] 〜朝日新聞本より抜粋〜 鹿嶋大神宮惣六箇院。廿年間一加修造。所用材木五萬餘枝。工夫十六萬九千餘人。稻十八萬二千餘束。採造宮材之山在那賀郡。 去宮二百餘里。行路嶮峻。挽運多煩。伏見。造宮材木多用栗樹。此樹易栽。亦復早長。宮邊閑地。且栽栗樹五千七百樹。樹卅四株。 望請。付神宮司。令加殖兼齋守。太政官處分。並依請。
写真 社頭 社殿 鹿島土屋伝承地
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