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関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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常陸国風土記紀行 第三回「賀毘礼の高峰2/2 賀毘禮神社」 ( No.[17]40 )
日時: 2011/02/23 23:32:47
名前: 御津垣  ID: FVNi8n3w
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2011/03/01 20:17:27

こんばんは。

御岩神社を薩都神社としなかったのは、おそらく以下のような
要因ではないでしょうか。
あくまで推測ですけど。。。

・大同元年(806年)にはすでに薩都神社は、里野宮小中島に遷座しており
 御岩山中の祠は、山宮としては年数える程度の祭祀しか行っていなかったのではないか?
 そもそも人里を離れており困難な場所であった。

・出羽三山勧請(1630年)で、御岩山は湯殿権現が祀られ、
 後に光圀公の尊慮にて、御岩山権現と改称している。
 修験が盛んになり入四間宿が御岩山権現の門前町として
 形成されるくらいになっていることから、
 御岩山権現は、水戸藩の肝いり、修験の隆盛で御岩山の中心と
 なっていった。

・初期のころ御岩神社の管理には、
 里野宮別当の赤須氏(現薩都神社宮司の祖)がついていた。
 明治の神仏分離後には、御岩山中に霊場毎に神社があったようである。
 明治六年に、御岩神社に合祀されるわけだが、
 入四間宿に近かったことや、御岩権現として歴史、
 また、すでに里野宮宮脇に里宮として薩都神社は鎮座しており、
 名称にはそれほどこだわりはなかったのではないか?
  ※赤須宮司の話は、『入四間の今昔を語る』参照


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