- 日時: 2014/12/28 15:53:28
- 名前: 御津垣 ID: sgBvC/nc
- 編集: 【回数】 2回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2014/12/28 16:40:26
- 『胆沢町史』(1982)よれば膽澤川神社のもとの所在地は、
於呂閇神社本社(現奥宮)の鎮座する猿岩ではないかとしている。
安永二年(1773)の『胆沢風土聞誌』に 「胆沢川神社は祭神水速女命。伝え曰く。胆沢川の畔に高山有りて明神倉と号し、 山上に小さい祠の胆沢川神社有るなり」※1とあり、明神倉を同胆沢風土聞誌の 「前川は小川なり。源は浅見岳より出て下嵐江の明神倉を過ぎて胆沢川に入る」 の記述から、現在の猿岩ではないかと推測しているわけである。
さらに、於呂閇神社は猿岩頂上にあり建物が風で飛ばされてから下方におりたとある。※2 下方におりた時の石堂が、奥宮と頂上の間にある小さな一祠であろうとして、 同時に頂上には、この石祠とは別に胆沢川に面して、膽澤川神社の磐があったとのでは と結んでいる。
旧社地の確認に猿岩に再訪したのは2013年10月である。 しかし、つぶ沼から新設された付け替え道路は、橋の先での工事に為、 立ち入りを禁じられていた。 工事終了の時期は不明、歩いての立ち入りも禁止とガードマンに止められてしまった。 橋の向こうにチェーンソーの音が響いていた。
土橋の里宮に参拝に立ち寄ると、偶然にも宮司様がいらっしゃったので、 猿岩への道が工事中なことなど話に付き合って頂く。 次回は、来年になるだろうという段になって、 時間があれば案内するとのことをお言葉を頂いた。
翌2014年は公私ともに多忙で、なかなか東北に訪れることができない状況が続いていた。 落ち着きを取り戻したのは8月も後半に入ってからである。
8月某日 9月三連休を使って訪れることを決め、関係者に連絡を入れる。 於呂閇志膽澤川神社 宮司様には、例祭の間の日ということで 9/14にアポをとらせて頂いた。 時間は、前日に電話で確認することとした。
9/13東北新幹線で水沢江刺到着は8:45。 登拝・調査に参加されることになった知人が待っていてくれた。 駒形神社に参拝し、関係者に挨拶してから、初日の目的である「焼石駒ヶ岳」に向かう。 今年はこれが初めての登拝となる。
うがい清水登山口に向かう途中。 明日お会いする宮司様のご自宅に伺う。約束では明日であるので驚いておられる。 賞味期限が当日中の手土産を届けに上がっただけなのであるが。 ついでということ、明日の集合時間・場所を確認する。 集合は、土橋の里宮。時間は9:30となった。
9/14 9:30 土橋の里宮。 宮司様の車に乗り換えて猿岩に。
胆沢ダムを越えて、つぶ沼方面に。 付け替え道路の先、猿岩が見える。 「弘法の寝石」の先に猿岩に渡る橋がある。工事はしていない。 一車線の橋を渡り、林道に入る。 奥宮前まで車で向かう。猿岩裏側終点には駐車場となっている。 奥宮には駐車場から5分とかからずに伺うことができる。
奥宮に到着し、宮司様に合わせて参拝する。
ここから先は、知人と自分だけが、奥に進むことになった。 宮司様は、ここで待つという。
営林署の方々が通った道であろう。 リボンがついた道を進む。危険な場所はない。
やがて平坦な場所に着く。奥宮から10分程度。 おそらくここが頂上から降りた最初の遷座地である。 胆沢町史では、この辺りに石祠があるという。 宮司様のお話では、存在は確認しているが、最近は全然行っていないので、 どのような状況かは定かではないとのことであった。
石祠らしきものは見当たらない。 下山時に探すことにして、歩を進めることにした。
平坦部の先、急登となる。 地図によれば、この先が頂上となる。 今回は登山靴ではないので、足元が覚束ない。 斜度のきつい登りの後、頂上につく。 奥宮から15分程度であった。
頂上部、平地部分は狭い。 植生が濃く、見通しは利かない。 この部分に大きな社殿は建てられないであろう。 祠や案内の類は見受けられない。 2つほど三角点みたいな石の杭が打ってある。 管理的なものであって、神社関係ではなさそうだ。 何かの記述は見うけられない。
遅れて登ってきた知人と一緒に 何かないかと少し探してみたが特に見つからなかった。 写真を撮って、下山することにした。 薮蚊が煩い。宮司様は大丈夫であろうか心配になった。
先ほどの傾斜の厳しいところの下りは、一層の注意を払った。
平坦部に戻り、石祠を探す。 探しだしてから5分。木の根元。裏側に石祠を見つけることができた。 登ってきたときに右を見ていれば素直に見つけられた感じだ。 この石祠が嘗ては頂上部にあって、それとは別に胆沢川に面して 胆沢川神社の磐があったのではないかという。 お参りをし写真を撮影して、奥宮まで戻ることとした。
奥宮には宮司様の姿はなかった。 薮蚊から逃れたのだろう。奥宮の写真を撮影してから駐車場に戻ることとした。
駐車場に着く。 宮司様はやはり薮蚊を避けていた。 お待ち頂いたお礼と、無事に目的を果たせたことを告げる。 猿岩を後に、土橋の里宮に戻ることとした。
戻りの車中にて、往古の猿岩における私祭について伺う。 どうやら奥宮での祭祀について復活を考えていらっしゃるようである。 早ければ来年2015年の春例祭4/29に先立って 奥宮での祭祀の再開とのことである。 この私祭は、昭和二十一年より総代による鎮座運営となった経緯がある。 もっともこの頃は、いまの宮司様の家系ではなかったのだが。
途中、湖の底から引き上げられた「弘法の枕石」「胆沢ダム管理事務所」「徳水園」などに 寄って頂き、ちょっとした観光をさせてもらう。
やがて土橋の里宮経由で、宮司様の自宅に伺いお茶をご馳走となった。 昼時ということもあり長居するのも失礼と思い、改めてお礼を述べ退居することとした。
以上が、猿岩における古社地の実地調査の内容である。 他では、推測に基づいた古社地に対する考えを徐々にではあるが 追記しているが、こちらではあまりにも整理されていないので 該当部分は外させて頂いている。
※1 同様の記載が、『奥羽観蹟聞老志補修篇巻之十』にも納められている。 「郷人云。胆沢河畔有高山。曰明神倉。山上有小社。是古之胆沢川神社也。」
奥羽観蹟聞老志補修篇 伊勢斉助が、佐々木義和が編纂した「奥羽観蹟聞老志」の誤謬や不備を補修し、 大正12年(1923)に完成したものを、後にその補修分だけを「補修篇」として 抄出したもの。
※2 現宮司様のお話とも一致する。 宮司様のお話によると、現奥宮まで2回遷座しているが それまでに3回建物が風で飛ばされているという。
於呂閇志膽澤川神社 【鎮座地】(里宮)奥州市胆沢区若柳字下堰袋48 (奥宮)奥州市胆沢区若柳字石淵1 【祭祀】 例祭 4月29日 於呂閇志神社 9月12日 膽澤川神社 【旧社格】村社 【御祭神】 於呂閇志神社: 神八井耳命、天津彦火瓊々杵命、大名持命。(須佐男之尊、大山神見命、木花開耶姫を配祀)
膽澤川神社: 澤女命、水速女命。(若飯豊別命、軻遇土命、誉田別命を配祀)
【由緒】 〜岩手県神社庁青年神道会HPより〜 当社は平城の朝、大同二年(807)郡民胆沢川の水神を鎮祭し奉り、 該川の水を分して灌漑する所を胆沢郡という。 郡中この水脈を使用して耕田の功業を成す故に、 郡民沢女命の神璽を水源に鎮祭して胆沢川神社と崇敬した。 入民の藩息を分掌する神霊にして延喜式内に列す。 明治四年(1871)王政維新の時村社に列格す。 明治四十年(1907)五月二十四日、同村社延喜式内於呂閉志神社を合祀、 村社於呂閉志胆沢川神社と改称す。 奥宮は桓武の朝、延暦二十年(801)坂上田村麻呂東征の折勧請にして 延喜式内に列する神社なり。 明治四十年(1907)五月二十四日、村社胆沢川神社へ合祀し奥宮となる。 村社於呂閉志胆沢川神社と改称す。
参考「胆沢町史」
写真 ・奥宮(旧 於呂閇志神社) ・於呂閇志神社旧社地 猿岩頂上直下 ・於呂閇志神社旧社地 猿岩頂上
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