- 日時: 2009/09/26 14:09:37
- 名前: 伊達青衝 ID: G548kqKk
- 参照: http://jinja-kikou.net/
- 編集: 【回数】 3回
【名前】 伊達青衝 【最終日時】 2009/09/26 14:21:47
- 赤城おろしさんの調査、大変参考になります。
久が原八幡は東西問わず式内論社ではないのですか!式内論社かと思っていました。
神楽さんの記載されるとおり、村社でも無格社でも式内社はたくさんあるけどなあ。。。 富岡八幡というのも確かに意外ですね。
で、改めて式内社調査報告を読み直してみますと私もちょっくら認識勘違いがありまして、、、
−−−−−−−−−−−−−−− 「式内社調査報告 東海道6」96頁以降を一部抜粋 【由緒】 〔丁〕八幡神社 大田区南久が原二丁目 社伝によれば延徳元年(1489)天明伊賀守光信の子で五郎右衛門光虎という者が下野国より移住し応神天皇を勧請 旧社格は無格社。 【所在】 〔丁〕鵜ノ木八幡神社 東京都大田区南久が原2−24−1 【論社考証】 〔丁〕をとるのは「風土記稿」 すなわち「風土記稿 北蒲田村八幡社(現在の稗田神社)」の条に 「郡内三田町八幡社(現在の三田八幡)、八幡塚村八幡社(現在の六郷神社)、及び鵜の木村名主五郎左衛門が宅地にある祠(現在の鵜の木八幡)等皆古の稗田神社なりといへり、かくまちまちにして明証もあらざれば、いづれをそれともさだめがたし・・・」 とあり、 「風土記稿 鵜の木村 鵜の森神明社(丁説)」の条で 「今北蒲田村の八幡(現在の稗田神社)を稗田神社と称するのは訛りにて、稗田神社は則ち当社なり」としている。
−−−−−−−−−−−−−−−
ということで、久が原の式内論社は、南久が原の「鵜の森八幡」ぽいです。 でも、なんで延徳元年で式内論社なんだろ? もしかしたら風土記稿の頃は、まだ社伝?が明確ではなかったのかな
式内社調査報告でも武蔵国荏原郡稗田神社の論社としては「鵜の森八幡は」延徳元年(1489)創建、六郷神社は天喜5年(1057)創建とあるために式内社と考えるのは無理があると書いてます。
私も赤城おろしさんと同じく久が原の論社は「久が原東部八幡」かと思っていました。。。 私も思い違いしてましたが、どうして式内論社が「久が原東部八幡」になったんでしょうかねえ?逆に気になりますね
どうにも資料はしっかり読んでおくものです。私のサイトの記事も修正必須です、、、、
|