- 日時: 2022/05/21 11:24:38
- 名前: 御津垣 ID: MpapeaZs
- 編集: 【回数】 4回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2022/07/24 12:27:07
- 石甕の探索から戻った翌日、
職場から帰宅して寛いでいるところに 大塚宮司様から連絡がある。
ボランティアの方が、残りの欠片を探したいとのことだ。 来年のつもりであったが、急遽週末に伺うことととした。
雨が降りそうな空模様である。 今回の参会者は(お名前は伏せさせて頂くが)ボランティアの方2名。 前回同様に社務所前に集合。 簡単な挨拶の後、山中に向けて移動する。
参拝者が多いので、前回のような目立つルートは使えない。 2人はボランティアの腕章をつけているので立ち入り禁止エリアに入っても どうこう言われることはないが、 その先になにかあるのではないかという興味をひかれてしまうと 侵入して事故につながりかねない。 別ルートを使って人目につかないようにするようにした。 倒木が大変なんですが。。。
今回の探索では、石甕が 薩都大神または隣接する御神酒岩から谷に落ちて分裂したと想定して 前回までの発見場所に棒を立てることにした。 探索する範囲を絞ることもできる。
到着後に、簡単に前回までの状況や、磐座の説明をして作業を開始する。 谷底から磐座群、発見場所の位置関係が一見して分かるようになった。
お二人と一緒に転がっている石や草むらの下など確認する。 なかなか見つからない。 欠片だけでなくもう一つ石甕も存在するはずなのだが。 そうこうしているうちに雨が落ちてくる。
薩都大神と谷筋の中間にある支尾根へのトラバース地点は 若干の窪地となっており、落ち葉が溜まりやすいのか腐葉土のようになっている。 その位置で石甕の落下する様子をシミュレートする。 若干放射状に分散はされても、きわめて指向性がある。 前回までの発見場所を考えると草むらの位置は該当しない。 人為的に投げ捨てられでもしない限り。
ふとその場で若干丸くなっている岩を見つける。 地中に大部分が埋まっていて大きさは分からない。 同じようなものはいままであったので、どうせ同じものだろうと持ち上げる。 意外と簡単に持ち上がる。 あっけないものであるが、それが目的としていた石甕の最後のピースであった。 この場所、掘ればまだ他に見つかるのかもと思ったが、 スコップなどは持ってきていないのでそれは諦めた。
お二人をお呼びして、石甕の欠片をお渡しする。 感動されておられたが、雨足が強くなったので、下山することとした。
途中、宮司様の許可があったので 薩都神社奥宮にご案内するが、石甕以上に感動されておられた。 なにかこちらの方向から見守れていた感じがしたとのことだ。 敬神の念の厚い方々である。 きっと、今後も御岩山を、参拝者の方々を守っていってくださるだろう。
この場所もパトロールの範囲に入るだろう。 結構昔にあった姥神の盗難未遂※のようなことは防ぐことができるだろう。 知らない間に倒れていて、たまたま来た自分が立て直しとかそんなことはなくなる(;^_^A
※かつては姥神跡に祀られていたが、盗難されそうになった。 下山中に発覚し未遂となる。 そのため今は、姥神跡からおろされ、レプリカが御岩神社脇に祀ってある。
さて、社務所に到着して、宮司様に発見を報告。 あまり期待はしていなかったのか驚いておられた。 水道をお借りして欠片の土を落とす。 奥から前回までの欠片を持ってこられたので合わせてみる。 甕底に不自然な凹みがあるが、 発見できる石甕と蓋のピースとしてはこれで全部となるであろう。
不自然な凹みは人為的なものが感じる。 後日別の方々から助言を頂いたが、 たしかに「かわらけ」などでは祭祀の後に割ることもあるが、 さすがにこの厚さのある石甕を割ることはあるまいと思っている。 むしろ植木鉢にちょうどいいから底を開けようとして 失敗して割れたので捨てたのではないか? というような悪意を感じてしまうのは人間ができていないからかな・・・
雨も強いのと、自宅が遠いのでこれでお暇することとした。 ボランティアの方々とは昼食を御一緒させて頂いた。 遭難騒ぎや、御岩山の状況などお聞きでき楽しいひと時であった。
〜後日談〜 大塚宮司様から電話連絡 1.古老から聞いたところ、やはり2つの石甕があったとのこと。 2.日立市郷土博物館学芸員に見ていただいたところ ・年代は江戸中期ごろ。 ・材質は町屋石。 ・石甕というより石櫃と呼ぶのではなかろうか。 とのことであった。
町屋石は、常陸太田市町屋町でかつて産出していた石。 水戸藩御用達の石で、一般領民の採取を禁じていたらしい。 水戸徳川藩の墓石にも用いられている。
水府領志が、小宮山楓軒編纂なので、おおよそ年代は合っていると思える。 確実というわけではないが、記述の石甕ではないかと推測している。
それより素材が町屋石というところが驚きである。 御岩山・薩都神社がそれだけ水戸藩とのつながりがあったということであろう。
さて、さらにその後の話だが、 2回ほど探索を行っているがもうひとつの石甕発見には至っていない。 見つけたのは「かわらけ」と「寛永通宝(水戸銭)」くらいで、 湿気のない地中にあったもの以外は状態が悪いものであった。
この辺りを確認には、 昔ロッククライミングをされていた山岳会などにお聞きするのがいいのだろうが 立ち入り禁止になっていることもあるので状況的に難しいだろうな。。。 近くに瑞牆山みたいのがあったらよかったのだが。
写真 ・石甕 下の大きな欠片が今回発見部位 ・石甕に蓋をしたところ
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