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関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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[17] 雑談スレ prat3
日時: 2010/04/19 23:02:28
名前: 神楽  ID: 72/m03UA

雑談用スレです。
神社関係だけじゃなくてもOKです。
お気軽にどうぞ。

過去スレはこちら
雑談スレ
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=2
雑談スレ prat2
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=7
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常陸国風土記紀行 第三回「賀毘礼の高峰2/2 賀毘禮神社」 ( No.40 )
日時: 2011/02/23 23:32:47
名前: 御津垣  ID: FVNi8n3w
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2011/03/01 20:17:27

こんばんは。

御岩神社を薩都神社としなかったのは、おそらく以下のような
要因ではないでしょうか。
あくまで推測ですけど。。。

・大同元年(806年)にはすでに薩都神社は、里野宮小中島に遷座しており
 御岩山中の祠は、山宮としては年数える程度の祭祀しか行っていなかったのではないか?
 そもそも人里を離れており困難な場所であった。

・出羽三山勧請(1630年)で、御岩山は湯殿権現が祀られ、
 後に光圀公の尊慮にて、御岩山権現と改称している。
 修験が盛んになり入四間宿が御岩山権現の門前町として
 形成されるくらいになっていることから、
 御岩山権現は、水戸藩の肝いり、修験の隆盛で御岩山の中心と
 なっていった。

・初期のころ御岩神社の管理には、
 里野宮別当の赤須氏(現薩都神社宮司の祖)がついていた。
 明治の神仏分離後には、御岩山中に霊場毎に神社があったようである。
 明治六年に、御岩神社に合祀されるわけだが、
 入四間宿に近かったことや、御岩権現として歴史、
 また、すでに里野宮宮脇に里宮として薩都神社は鎮座しており、
 名称にはそれほどこだわりはなかったのではないか?
  ※赤須宮司の話は、『入四間の今昔を語る』参照


常陸国風土記入門なら、
『常陸國風土記』(常陽藝文センター)がお勧めです。

比定地などの写真、地図なども盛り込まれており便利でした。

常陸国風土記紀行 第三回「賀毘礼の高峰2/2 賀毘禮神社」 ( No.39 )
日時: 2011/02/23 17:38:09
名前: かぐら  ID: i7xahwYM

賀毘禮神社も御岩神社も行ってみたくなりましたよ。
茨城県神社誌の記述、難しいですね。
こんなところで加波山の名前が出てくるのですね。

でもなんで薩都神社が御岩神社の境内社であるんですかねぇ。
御岩神社が薩都神社を称してもいいような気もするのですが・・・?
玉敷と宮目の関係みたいな感じなのかなぁ。

やはり常陸国風土記面白いです。
わかりやすい本ありましたら教えてください。
常陸国風土記紀行 第三回「賀毘礼の高峰2/2 賀毘禮神社」 ( No.38 )
日時: 2011/02/20 00:05:00
名前: 御津垣  ID: 2N45qF3I
編集: 【回数】 7回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2016/01/23 16:08:32

賀毘禮神社(御岩神社境内社)
【御祭神】立速日男命(速経和気命)、天照大御神、瓊々杵尊
【境内神社】皇国社(歴代天皇)、水神社(水速女命)、
      七合目以上の岩窟至る処に天神地祇を祀る。
【祭祀】例祭 2月11日
【施設】奥宮(石祠)、中宮(大厳石窟内)、下宮
【駐車場】あり



御岩神社では、先の薩都神社中宮を「裏参道奥宮」、
この賀毘禮神社下宮を「表参道奥宮」と称している。

両社ともに主祭神は「立速日男命」である。
ただし賀毘禮神社は、立速日男命以外に
「天照大御神」、「瓊々杵尊」の2柱も合わせて祀られている。

創建の時期や具体的な由緒などは不明。
御岩神社境内では、薩都神社が最も古いことは間違いない。
境内図などの情報では、天保十二年(1843)には存在していたことは
分かるという程度である。※1

茨城県神社誌には、このような記述がある。
『海抜624米、奇岩怪石の変化に富む神体山で、葦原山、又阿女能加具夜麻とも呼ぶ。
賀毘礼大神宮に知られた加波山と並ぶ両部修験道場であった。』

この文意をどうとるか?
「賀毘礼大神宮と知られ、(筑波連山の)加波山と並ぶ両部修験道場であった」
「賀毘礼大神宮で知られる(御岩山西峯の)加波山と並ぶ、両部修験道場であった」

筑波連山の加波山もまた、水戸藩の主要な修験道場である。
また、御岩山にも加波山といわれる霊場がある。
それは薩都神社磐座の上部にあたり、御岩山では西峰にあたる感じの加波山から薩都神社中社は
支陵線延長上にあるのである。
賀毘禮神社奥宮は、東峰であろうか。。。


後者であれば、出羽三山勧請(1630)の時期などから創建の時期もある程度は
推測できそうであるが、前者ではお手上げである。
いづれにしても材料が乏しい現状としては、
いたずらに仮定な話を語るべきではないと判断し、ここでは記載はしない。


さて、賀毘禮神社の境内であるが、以下のような歌碑がある。
『国の中はびこる草根刈り絶ちて君が千代田に返しまつらむ』光圀
『光圀の遺せる跡を吾れ訪えば朝廷を守る証しなりける』斉昭

またすでに水は涸れているが、「金上関御多満理池」が歌碑の前にある。
光圀公が「大日本史」編纂開始時に、硯の水として使ったといわれている。


※1
天保十二年賀毘禮山検地図での情報
 賀毘禮大神宮神地反別百参拾九町六反五畝拾四歩
 御岩山大権現霊場反別四拾五町四反六畝拾五歩
これには、薩都神社も賀毘禮神社も掲載されている。

(写真)
左:賀毘禮神社「下宮」 表参道沿い
中:賀毘禮神社「奥宮」
右:賀毘禮神社「中宮」 天岩戸
1298127900-s1.jpeg 1298127900-s2.jpeg 1298127900-3.jpeg
常陸国風土記紀行 第三回「賀毘礼の高峰」 ( No.37 )
日時: 2011/02/02 08:39:11
名前: 御津垣  ID: .xzvJuiI
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2011/02/04 23:40:12

すいません。返事が大変遅くなりました。
奥宮や、奥の院の呼称については、参考にしていた「御岩山」でも、
章の筆者で、異なっていたようです。

「奥宮」と「奥の院」も辞書では同じ意味なので、
(自分的には、「院」はなにか寺院的響きに感じるが)
ここでは、便宜的に以下のように定義付けして
修正しようと思います。

○修正内容
 奥の院 → 磐座※1
 奥宮  → 奥宮※2
 本宮  → 中宮※3

 ※1 近年中に、案内板を立て直すとのことです。
    場所に間違いがあれば、後日訂正します。

 ※2 「薩都神社跡地」や「上宮」の呼称もあり
    作業林道から降りる感じだと余裕で辿り着けます。
    ただし暖かくなったら、マムシ注意で!

 ※3 「本宮」と参拝の栞にもあるが、宮司様に確認したところ、
    『「中宮」で』とのことでした。
    また、昨年立て替えられたようです。写真を差し替えます。


ついでに、表題も変更して、賀毘禮神社との2部構成にします。
烏子稲荷神社 ( No.36 )
日時: 2011/01/26 21:52:42
名前: 神楽  ID: Nh6yR7Cw

烏子は須苗子の森に勧請されたことからきているようですよ。
常陸国風土記紀行 第三回「薩都神社奥の院『薩都大神』」 ( No.35 )
日時: 2011/01/25 18:03:21
名前: かぐら  ID: IzJZtx8w

凄いです、はい。
薩都神社の奥の院と本宮と奥宮・・・解釈が難しいですね。

それにしても奥宮ってその辺にボンとあるような感じがしますね。
私でも行ける場所なんでしょうか?
烏子稲荷神社 ( No.34 )
日時: 2011/01/24 14:02:32
名前: まほろば  ID: RITkxvew

群馬県高崎市小塙町に鎮座する「烏子稲荷神社」に参拝してきました。
読み方が「すないごいなりじんじゃ」なんですね。
常陸国風土記紀行 第三回「賀毘礼の高峰1/2 薩都神社」 ( No.33 )
日時: 2011/01/17 13:29:02
名前: 御津垣  ID: 1D3HAbWc
編集: 【回数】 9回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2024/08/31 23:49:37

薩都神社中宮・奥宮・磐座(いづれも御岩神社境内社)
【御祭神】立速日男命(速経和気命)
【駐車場】あり


常陸国風土記 「久慈の郡」抜粋
------------------------------------------------------------------------
東の大き山を賀毘禮の高峯と謂ふ。
即ち天つ神有す。
名を立速男命と稱ふ。一名を速経和気命なり。
本、天より降りて、即ち松澤の松の樹の八俣の上に坐しき。
神の祟、甚だ厳しく、人あり、向きて大小便を行る時は、
災を示し、疾苦を致さしめければ、近く側に居む人、
毎に甚く辛苦みて、状を具べて朝に請ひまをしき。

片岡の大連を遣はして、敬ひ祭らむるに、祈みてまをししく、
「今、ここに坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。
理、坐すべからず。宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」
とまをしき。

是に、神、ねぎ告を聴きて、遂に賀毘禮の峯に登りましき。
其の社は、石を以ちて垣を為し、中にやから甚多く、
また、品の寶、弓・鉾・釜・器の類、皆石と成りて存れり。

凡て、諸の鳥のへすぐものは、ことごとにとく飛び避りて、
峯の上にあたることなく、古より然為て、今も同じ。
即ち、小水あり。薩都河と名づく。源は北の山に起り、
南に流れて久慈河に入る。
------------------------------------------------------------------------

「賀毘礼の高峰」について諸説あることも既述であるが、
地理的・考古学的見地から御岩山が有力な遺称地となっている。

この御岩山中には、式内社薩都神社の中宮や奥宮がある。※
明治十五・六年頃までは、里野宮の薩都神社との間で、祭礼神事も行われていた。
九月には山に入って山ノ神となり、四月には里に出て田ノ神となる。
山宮と里宮の関係を伺い知ることができる。

奥宮は石祠であり、現在ではそこに至る道を見出すことはできない。
元々この場所が、薩都神社跡地であったと言われており、
往古は、中宮〜奥宮〜磐座と連なる参道があったのだろう。
奥宮の場所であるが、祭祀が行われていたと思われる平地ではない。
石祠の左側には石組みの名残なのだろうか、石が不自然に転がっていた。
しかし神社跡地とは言われているが、なぜこの位置なのかは大いに疑問がある。

奥宮より上部は、山様も急峻となるため、
もしかしたら祭祀場所が降りてきたのかもしれない。
磐座への祭祀からの変化、岩上→岩陰→半岩陰・半露天→露天のような
祭祀形態の変化と考えればある程度は納得できるのでないだろうか。

ここで結論は出るわけではないが、
 山頂部:奈良〜平安時代初期頃の須恵器、土師器の小破片
 奥宮付近:中世の常滑焼四耳壺
など祭祀で使われたと思われるものが、見つかっていることは事実のようである。


奥宮から磐座に向う。
古い境内図には「薩都大神」「薩都神社奥の院」「薩都の大岩」と
記載されているこの磐座にも、嘗ては案内板があったようである。
しかし、残念なことに経年の為、案内板の文字は全く消えており
それがなにを示すものなのかは推測するしかない状態である。

自分の計4回に亘る磐座の所在確認は、
『筑波書林「御岩山」』の略図(P.18/P.92〜93)を参考に行っている。
把握していた位置情報は、「五丈八尺岩」「御岳神社」と「姥神」のみ。
P.18の略図では、奥宮から磐座までの道の存在が記載されているが、
上述の通り現在ではそれを見出すことはできない。
磐座に伺うには、やはり「姥神」経由となる。

やがて、岩場の尾根に着く。ここは登山道の十字路である。
イワウチワの群生地でもあり、3月末〜4月上は可憐な花を見ることができる。

尾根の裏側には、高皇産霊命他二神の石柱があり、
また「天狗ののぞき」と言われる大ハングが見える。
その先には、別の岩場「五丈八尺岩」がある。

左側は、御岩山山頂方向の登りである。
ロッククライミングまでは行かないが三点確保の上
安全に登らないといけない岩場となっている。
岩場を登り切れば、先ほどの「天狗ののぞき」の上である。
ロッククライマーがいなければ、そこからの眺めも楽しみことができる。
少々のスリルと展望を味わった後は、わずかで頂上である。

右側には、立岩が見える。これは「梵天岩(御神酒岩)」と言われるらしい。
その下(その先)に見える岩が、『薩都神社の磐座』である。
石甕なるものの確認ができなかったのが残念であるが、
以上が自分が所在を確認した内容である。

ちなみに磐座の先は、一般的な登山道は途絶える。
林業か営林署の方が歩いたことによってできた跡のみがあるだけである。
裏参道のショートカットも可能なようだが、急峻な為、一般登山者にはお勧めできない。


※ 中宮、奥宮、磐座の呼称については、書き手によって異なるようです。
  ここでは、便宜上、以下のように定義します。
   中宮:御岩神社裏参道沿いにある「薩都神社」
   奥宮:嘗ての薩都神社跡地にある「石祠」。
   磐座:御岩山188神のうち167番目の「薩都大神」


(写真)
左:薩都神社「磐座」
中:薩都神社「中宮」 裏参道沿い
右:薩都神社「奥宮」

 自分の写真の使用は自由ですが、
 自他の区別の為、どこからの流用かは記すべきだと思いますよ。現地を調査されているとうたっているならなおさらです。
 延喜式神社の調査
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甲波宿禰神社古社地(川島) ( No.32 )
日時: 2011/01/13 11:30:23
名前: かぐら  ID: nRnPv21U

修正してあるのを探して確認はしていましたが、再アップありがとうございます。

上野国式内社の古社地は全然探していないから今度行ってみます。
赤城おろしさんが赤城神社古社地調査していましたので、後は榛名神社とかかな?

それと高森神社復興祭の日、やっぱり仕事でした
甲波宿禰神社古社地(川島) ( No.31 )
日時: 2011/01/13 11:05:31
名前: 御津垣  ID: 2N45qF3I
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2016/01/23 16:24:40

群馬郡 甲波宿禰神社 古社地(渋川市川島)


御祭神:速秋津彦神、速秋津姫神
旧社格:郷社
駐車場スペースあり



上野國四宮 川島甲波宿禰神社は、いまさら掲載するまでもないくらいに
情報がありますので、先月訪問しました古社地を掲載します。

川島甲波宿禰神社の北東 約700m。
新幹線の高架下、吾妻川近くの畑の中にあります。

浅間石が積まれその上に、「甲波宿禰大神」の石碑が2柱建っております。
この敷地下付近には遺跡が眠っているそうです。
遺跡を埋めた後に、浅間石を積んで、石碑をその上に遷したとのこと。


吾妻川の氾濫などで、現在地に遷座したものと思われますが、
自分のライフワークになりつつある「式内胆沢郡 胆澤川神社」の
調査にも参考になりそうな古社地でした。
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