国史見在社の呼称について ( No.100 ) |
- 日時: 2012/12/19 17:41:40
- 名前: 神楽 ID: XDkd4b7M
- すみません、よくわかっていなかったようです
上野國神名帳は修正される前の元が確かにあるのですが、不明になっています。 恐らく?というのはあるのですけどね。
ただ記載されるということは、元ができる以前に崇敬されていた神社であることは間違いないわけですし、式外社の可能性としては高いのかなとは思っています。
|
国史見在社の呼称について ( No.99 ) |
- 日時: 2012/12/18 18:32:29
- 名前: 御津垣 ID: vJ9HpT5U
- 編集: 【回数】 1回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2012/12/19 17:06:32
- ■No.98に対しての引用返信です。
>えっと国史所載というのは明治前にあって、他は明治後ということでしょうか。
言葉というのは難しい。。。 赤城おろしさんとの話題の解としては、(1)で十分だったのに、 (2)を紹介したことによって自分も混乱してきました。。。
論者が言いたいのは、 (1)という従来からの説に対して、実は(2)という実績があったのだよ〜的な感じでしょう。
自分としては「国史所載」という『言葉』ではなく、そのような『意識』はすでに存在していたと まとめたかった訳です。
いずれにしても、これ以上は論者に失礼なので、 結論部分の一節を以下に記載致しますね。
同研究報告 P.528より ---------------------------------------------------------------------- このように、明治時代以前は、国史見在社のことを、式外旧社・式外神名・国史神名・ 国社・式外・式外社・式外諸神などと呼んでいたのである。ところが、明治時代になると、 国史見在社ノ諸社・国史現在ノ神社・六国史所載ノ神社という語が用いられ、 それらが整理されて、現在、一般的にいう国史見在社・国史現在社・国史所載社などという語に 定着したのである。そのような過程のなかで、はやく江戸時代初期において国史記載社という語が 用いられていたことに留意しておきたいのである。なお、今後とも名称の変遷に関する詳しい 調査研究が俟たれるのである。
----------------------------------------------------------------------
>私が気になるのは上野國神名帳記載神社が式外になるのかどうかってことなのですが、延喜年間より後っぽいんですよねぇ。
うーん。こちらも難しいですよね。でも神楽さんの専門分野ですし、 大体は「こうではないか」というお考えはお持ちなんですよね?
で、自分の考えでは、記載社全部が式外ではないのではないか〜と思ってます。 特に根拠があっての話ではありませんが、現存する神名帳が編纂当初のものから 修正等がなれていないであろうか?と考えているからです。 それに恣意的な修正がなされているからこそ、上野國神名帳は3種類の異本が 存在するとも考えることもできるのではないでしょうか。
|
国史見在社の呼称について ( No.98 ) |
- 日時: 2012/12/18 15:03:57
- 名前: 神楽 ID: sO2qBtzo
- えっと国史所載というのは明治前にあって、他は明治後ということでしょうか。
でも一番重要なのは式外社という認識があったかどうかということなのかな。
私が気になるのは上野國神名帳記載神社が式外になるのかどうかってことなのですが、延喜年間より後っぽいんですよねぇ。
|
国史見在社の呼称について ( No.97 ) |
- 日時: 2012/12/17 14:32:53
- 名前: 御津垣 ID: K0qjNyOI
- 編集: 【回数】 2回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2012/12/18 12:52:37
- ■No.96に対しての引用返信です。
>なるほど国史見在社って呼称は現存社よりも古いのですか。 >呼び方が色々あるとは思っていましたが、あまり気にしていませんでした。 >
うーん。すいません。 文章が下手でうまく伝わりませんでしたかm(_ _)m
趣旨としては、以下の2点です。 (1)国史見在や国史現在、六国史所載という呼称が定義されたのは何時ごろか? 『律令国家編纂の六つ正史』に記載があるという明確な意識による呼称は 明治以降に発生・整理されているということ。
※見在、現在、六国史所載の新旧比較は述べておりません。 ※この結論は、論者本人ではなく、 梅田義彦『国史見在社考』 近藤喜博『稿本国史現在社神名帳』 によるものである。
(2)六国史所載という意識は明治以前にはなかったのか? 「六国史所載」「見在」「現在」という言葉はなかったが、 江戸初期には『国史所載』という言葉は見ることができ、 この頃からすでに『六国史』を意識し、他の式外社との線引きがあったということ。
※「国史見在社という区分」と書いたのが誤解を生んだ要因ですね。 こうすれば分かりやすいでしょうか。 「『国史見在・国史現在・六国史所載』という言葉の整理はなされていなかったが 同じ意識をもって式外社の区分はなされていた」
ちなみにこちらが、論者が言いたかったことでしょう。
|
国史見在社の呼称について ( No.96 ) |
- 日時: 2012/12/17 13:51:32
- 名前: 神楽 ID: pkR0KUNI
- なるほど国史見在社って呼称は現存社よりも古いのですか。
呼び方が色々あるとは思っていましたが、あまり気にしていませんでした。
さすが論文までチェックするんですね
|
国史見在社の呼称について ( No.95 ) |
- 日時: 2012/12/14 14:37:24
- 名前: 御津垣 ID: K0qjNyOI
- 編集: 【回数】 1回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2012/12/18 17:59:45
- 『国立歴史民族博物館研究報告148−神仏信仰に関する通史的研究−』
において、 以前、赤城おろしさんとの話題であった 「国史見在社の呼称は新しいものであろう」に関する 内容の研究報告があったので紹介します。
三橋 健 館外研究員(國學院大學神道文化学部)の論文の一節です。
P.527-528、P.530より ---------------------------------------------------------------------- 梅田義彦は「以前は、国史見在社のことを、式外旧社、式外諸神などと呼び、 国史所載社(官社を含む)の語と並んで国史見在社の称を用いるに至ったのは 明治以降である」と述べ、その証左として、明治四年五月十四日の太政官布告の 中に「式内及国史見在社ノ諸社」と記すこと、また同日長尾藩の伺に対する 同年六月十二日の太政官の指令に「式内并国史現在ノ神社」とあること、 さらに明治三十年代以前に所定された「府県郷村社格内規」の第一条中に 「延喜式若クハ六国所載ノ神社」と見えることを掲げている。 また近藤喜博も「国史現在社の呼称の初見は何か」と求め、 「管見によれば明治年間に入ってから」と延べ、明治七年六月二十九日に、 教部大輔宍戸璣の名で出した達書第二十八号に「国史見在ノ神社」とあるのを 証拠として掲げている。 ----------------------------------------------------------------------
※梅田義彦「国史見在社考」(『神衹官制度史の基礎研究』所収、昭和三十九年三月) 「神道の思想」三巻にも掲載されてます。 ※近藤喜博『稿本国史現在社神名帳』(昭和五十年二月、私家版)
たしかに、国史見在・国史現在・六国史所載という整理は確かに明治以降になされた もののようであるが、三橋氏は江戸時代前期には『国史所載』という語が用いられている ことを、『加能越式内等旧社記』らをもとに掲げておられた。
式外社の中で、国史見在社という区分は少なくても江戸初期にはあったということに なるようです。
|
全国総社御朱印帳 ( No.94 ) |
- 日時: 2012/12/14 13:09:43
- 名前: 御津垣 ID: WgRKV8WY
- ■No.93に対しての引用返信です。
> 科野大宮社 諏訪形 諏訪神社 > (上田市)
赤城おろしさん
上記って、本務は『荒神宮』だと思ってました。
後日、修正します。
|
全国総社御朱印帳 ( No.93 ) |
- 日時: 2012/12/09 22:29:45
- 名前: 赤城おろし ID: 9.D/4TWs
- 編集: 【回数】 2回
【名前】 赤城おろし 【最終日時】 2012/12/14 15:20:26
- >御津垣さん
No.86の
信濃 伊和神社 建部社 (松本市) (塩尻市) 科野大宮社 諏訪形 諏訪神社 (上田市)
と修正して(書き加えて)おいて貰えますか?
|
ホームページの引越し ( No.92 ) |
- 日時: 2012/12/09 22:23:16
- 名前: 神楽 ID: HyVNAzAI
- 零さん、こんばんは。
リンクのURLを変更しました。 FC2仲間ですねー。
|
ホームページの引越し ( No.91 ) |
- 日時: 2012/12/09 00:37:20
- 名前: 零 ID: Po4XzRJ6
- 参照: http://togoku.web.fc2.com/index.htm
- 私事ですが、ホームページを引越ししました。
旧サーバで容量不足になりつつあったため、移動となりました。
|