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関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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[10] 【九州・沖縄】神社・御朱印情報
日時: 2009/10/30 22:50:35
名前: 御津垣  ID: 5rUlEDtM
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2013/01/28 20:51:38

九州および、沖縄に関する遠征報告・御朱印情報をお願いします。
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筑前・肥前紀行 2日目(背振神社下宮) ( No.12 )
日時: 2009/12/16 21:15:07
名前: 御津垣  ID: tGzyF89k

「背振神社(せふりじんじゃ)下宮」

−御由緒(背振神社(下宮)由来より)−
 日本六所弁財天の一社「背振弁財天」といわれ御祭神は市杵島姫命
 外の女神弁財天は仏教伝来後合祀されたという
 そのお使いといわれる白蛇が境内向って右側の石窟に棲んでいるので
 俗に『はくじゃさん』とも呼び伝へられている。
 神佛混合の昔は同一境内に下宮と多聞坊東門寺が並び建っていたが、
 明治七年の佐賀の乱で焼失し現在の社殿はその後再建されたものである。
 五穀豊穣開運財運の神様として崇敬を集め県内をはじめ九州一円から、
 参詣がある。


日本三代実録において、貞観12年(870)5月29日の条に、
筑前国正六位上 背布利神が従五位下に昇叙されたのが、背振山頂上に
鎮座する背振神社上宮にあたる。
その上宮を管理しているのが、脊振町服巻に鎮座する下宮になる。

さて、ここで筑前なのになぜ佐賀か?というところが疑問になるところであるが、
 上宮鎮座地はもともとは筑前国の範囲であった。
 上宮の管理は、筑前側の勢力下(東門寺)にあった。
などと考えてもいいのではないか。
その後の佐賀・福岡藩で国境争い、元禄6年(1693)の幕府の裁定によって、
佐賀藩側に属し、佐賀県となったとみられる。


櫛田宮から、とくに迷うことなく到着。
途中「九年庵」の一般公開の渋滞にはまいったが。
(当時は、「何があるんだろう?」という状態であった。)

すでに、9割は曇り。それに寒い。
この後 頂上の上宮にも伺う予定である。早々に参拝と写真撮影をしてしまおう。

七五三の御祈祷が終わったところなのか?
一組の家族が境内で写真撮影をしていた。
邪魔にならないように、お参りさせてもらう。

しかしながらすでに、ご神職の姿は見えない。社務所に戻られたのだろう。
写真撮影の後、石段下の立派な社務所に伺ってみるが、人の気配はしない。
ではと、駐車場前の民家に回ってみる。注連縄がかかっていることもあり、
宮司様のご自宅と思ったからだ。
幸い宮司様はいらっしゃったが、どうもすぐに出かけるようである。
なんとか、御朱印を分けて頂く。ゆっくりお話を伺える状態ではないが、
ともかく、頂上の上宮がこちらで管理しているものであることは確認がとれた。

その後、車に向かう。
自転車で坂道を上がってきた人が、神社の鳥居で写真を撮影していた。
「へー、ここでも自転車でヒルクライムやっているのか。ここが目的地かな?」
そんな感じで見ていたのだが。。。


さあ、最後の上宮である。



つづく
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筑前・肥前紀行 2日目(櫛田宮) ( No.11 )
日時: 2009/12/12 22:10:36
名前: 御津垣  ID: qa/kzJVI
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2009/12/12 22:14:00

「櫛田宮(くしだぐう)」

−御祭神−
 櫛田三柱大神
  東御座: 須佐之男命(高志大明神)
  正面御座:櫛稲田姫命(櫛田大明神)
  西御座: 日本武命(白角折大明神)

−御由緒(櫛田宮略記より)−
 ●肥前國有数の古社
  肥前風土記によると、第十二代景行天皇が巡行された折、当時のこの地には不幸が続いて
 人民苦しみ困窮していたが、神を祭りなごめたらその後は災厄もなくなり、神の幸をうける
 平和郷となった。このことからこの地を神幸(かむさき)の里と名付けられた。
 これが後に「神埼」となった。(『神埼発祥の地』の記念碑も神社裏に建っている。)
 神社の創建はこの時であり、吉野ヶ里遺跡とおよそ同時代の弥生時代後期にあたる。
 このように櫛田宮は創建以来千九百年余にもなる県内でも有数の古社である。
  櫛田宮付属の神宮寺としては櫛山金剛院があった。弘仁八年(八一七)勅命により国中の
 盲僧を集めて勤行をした盲僧の法頭で明治維新まで続いた。末寺五院のうち安居院が
 改宗して現存する。
  平安時代。今の神埼市から三養基郡みやき町あたりまでは皇室領の三千町歩もある荘園で
 「神埼御荘」と尊称されていた。その荘園の総鎮守が櫛田宮であり、南北各一里の地に鎮座
 する高志神社・白角折神社とは三所一体の神社で「三宮一徳、三所明神」と称した。
 また、百八十九もの末社があったとされ、当時の壮大な規模をうかがい知ることができる。
  昭和五十五年秋には中世史ご研究のため浩宮様(現皇太子殿下)が御来宮され、神社の
 古文書を親しく御覧になった。櫛田宮の古文書は、平安末期の大治元年(一一二六)のもの
 をはじめ数十通現存する貴重なもので、代々社家に伝えられてきたものである。
  吉野ヶ里町田手の東妙寺は、弘安元年(一一七八)勅願創建寺であり技能者集団をかかえ、
 櫛田宮の修理別当を勤める例であった。
  弘安四年(一二八一)蒙古来襲。櫛田宮より末社櫛田神社へ神剣を移して異賊退散を祈り、
 霊験あらたかなものがあった。ところが幕府の命により戦功の武士四百余人に神埼御荘・
 当宮神領は論功行賞として配分されたため、「九州の大社」と称せられた当宮も次第に衰退
 して行くこととなった。


神崎市鎮座の古社。社格は県社。
福岡市街地鎮座で、「祇園山笠」で有名な櫛田神社の元宮でもあるとされる。
(博多の櫛田神社には、伊勢の式内社 櫛田神社の分霊勧請説もある。)


さて、與止日女神社を参拝した後、予定通りに佐賀市街の「佐賀神社」に向かう。
こちらも2度目の参拝となる。市街に入るまでは順調であった流れも、中心部に
近づくほど交通量の増加により混雑の度を深めていった。
それでも、予定通り佐賀神社のある通りに到着。左に見える神社の垣根には
「七五三」の幟が多数はためく。付近を歩く人数も多い。
なにより、駐車場入場待ちの車が列を作っている。

「はあ?なんですかこの状態」自分の目的からは大迷惑な状態と言ってもいい。
やっと駐車場への入口に差し掛かる。表参道は人と出店で、山の手線のラッシュを
想像させる状態である。「はい。リジェクトです。」さようなら〜。
誘導員に「参拝やめる」と告げて、入口で旋回し退去する。
大変無駄な時間であった。そして改めて思う。「ダメだ。この時期の参拝は。」
次回は、長崎の諏訪神社と合わせて参拝する計画を立てよう。

貴重な時間を無駄にし、多大な疲労を蓄積しつつも、自分は次の目的地
神埼市の櫛田宮に向かうことにした。

櫛田宮に到着は、14時ちょっと前。
珍しく表参道側から来たのだが、駐車場がない。なんか言われるかな〜と
思いながらも、裏手の市役所の駐車場に停めて参拝することにした。
(すいません 。ちなみに神社の駐車場は正面左手、国道34号側から入る)
佐賀では晴れていたのに、すっかり曇り空。やはり時間のロスが悔やまれるが
どうしようもない。また来ればいいだけ。

さて、駐車場の心配もあるので参拝を済ませよう。
拝殿には七五三の祈祷客がいる。お邪魔にならないように参拝させてもらう。
ご神職と、その奥さんらしき方が奉仕をしている。
また、境内ではおじいさんが集めた落ち葉で焚火をしているような状況。
まだ御祈祷が終わらないだし、社務所には人がいないし、先に写真撮影を行う。
拝殿を一周後に、奥さん(と思う)が拝殿から出来きたので、御朱印を
お願いしてみる。拝殿の中のご神職に相談をする。ご神職が言うには
社務所に人がいるのでそちらで対応して頂きたいとのことであった。
「あれ?」という感じである。

社務所の方に伺う。挨拶をするとさきほどのおじいさんがでてきた。
もしかして、この方 宮司様? 失礼なことを想像していたもんだ。
さて、改めて御朱印をお願いする。ちなみに手渡す朱印帳は
「博多櫛田神社」のもの。御朱印を書いていただいている間に、先に頂いた
由緒書をざっとながめる。白角折神社のことを聞いておけばよかったと
今更思うが。。。こちらが兼務しているのかな〜?

その後、無事に御朱印を頂く。また、古文書に押されていたとう「肥前神印」
という御朱印を説明が記載されている別紙で分けて下さった。
説明を以下に記載しときます。

−古文書の朱印について−
 櫛田宮に伝える古文書のうち、最も古い大治元年三月(西暦一一二六年)の
櫛田社大宮司補任状は、平安時代白河上皇御領地の神埼御庄庁で、全紙面に
『肥前神印』の朱印二十九顆を捺してある珍しい古文書です。
この印を覆刻しました。
 なお、櫛田宮古文書は、昭和四十八年二月一日神埼町重要文化財指定、
昭和五十五年十一月二十八日浩宮徳仁親王殿下が当宮にて御台覧あらせられ
ました。


天候も怪しいし、これから向かうのは山なので、お礼を述べて
立ち去ることにした。車も心配だったし。

さて、次に向かうは同じ市内の、背振神社である。
いよいよ最終目的地である。


つづく
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筑前・肥前紀行 2日目(與止日女神社) ( No.10 )
日時: 2009/12/12 15:34:11
名前: 御津垣  ID: GO2zq6C2

「與止日女神社」
千栗八幡宮とともに、肥前国一宮とされる。
また、肥前国佐賀郡の式内小社でもある。

こちらに伺うのは今回で2回目である。
ちなみに前回は一宮巡拝での参拝であった。
実のところ、今回は予定に組み込んでいなかったのだが。。。

田島神社から最終目的地「背振神社」に向かう。
また、その行程中にある「佐賀神社」「櫛田宮」にも参拝しようと考えた。
唐津から国道203号線を下る。途中左手には天山が窺える。
国史見在社の一社でもあるが、今回はスケジュールには入れていない。
下宮2社のうち本務神社(天山社)の方は、御朱印等も
期待できるのであろうが。。。
(もう一社(天山神社)も「本務 八天神社」に聞けばもしかしたら)
後ろ髪引かれる感は、正直あるのであるが、まあ次回のお楽しみということで。


さて、車はやがて長崎自動車道 多久ICに到着。
これからは暫くは信号とはオサラバ。佐賀に向けて順調に距離を稼いでいく。
途中、小城PAで休憩。出発に際し、行程を改めてナビで確認。
そして「與止日女神社」を発見!

「ああ、そういえば高速の近くだったな。しかも次のICか。」
何れ伺う予定。現在地の現時点では天候も改善している。
場所も近い。次回、天気がいいという保障もないし。。。
「よし」と行程に組み込むことにした。

佐賀大和ICで高速を降ります。
神社にはなんの迷いもなく到着。まあ、一度来ていることもあるのだが。
鳥居前の駐車場には、お昼休みの営業の方か、仮眠の方が多い。
境内の方を窺うと、七五三の家族が一組が写真撮影をしている。
今日はそれほど込んではいないようだ。
とはいえ、田島神社のこともある。
今のうちに、御朱印をお願いしてしまおう。

拝殿入口にいらっしゃったご神職(多分 宮司様?)に御朱印を
分けてほしいことを伝える。なにやら準備があったようであるが、
快く承知下さった。
(比較のつもりはない。まだ時間もあったのだろうし。)

一緒に社務所に向かう。朱印帳を預けて外でくつろぐ。
天気がよくて気持ちがいい。唐津でもこれくらよかったらな〜。
まあ、仕方ないか。

さて、そんなことを考えている間に、御朱印の方も終わったようなので
朱印帳を受け取る。由緒書も分けてもらう。
その後、軽く雑談。前回は一宮のでっかい朱印帳を持ってきたこと、
今回は、肥前の式内外社の巡拝との話に反応され
「これもっていきな」と、全国一ノ宮の鎮座地図を下さった。
実はこれ3枚目。
式内社より、「一宮」のが知名度もある。
神社経営的にはその方がいいのであろう。

さて、お礼を述べその後は落ち着いて写真撮影。
撮り損ねがないようにしないと。
(帰ってから、対岸からの写真を撮っておけばよかったと
「玄松子」さんのところを見て後悔している状態)


さて、つぎは市街の佐賀神社である。
橋を渡るが、右折がなかなかできない。。。



つづく
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筑前・肥前紀行 2日目(田島神社) ( No.9 )
日時: 2009/12/10 20:48:40
名前: 御津垣  ID: GO2zq6C2
編集: 【回数】 3回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2009/12/12 12:35:38

「田島神社」
言わずと知れた旧 国幣中社である。
また、肥前国松浦郡の名神大社でもある。

こちらに伺うのは今回で3回目である。
ちなみに前回、前々回は写真撮影をしていない。
もっとも、当時は一眼レフカメラもなかったし、撮る気もなかった。
そんな訳での撮影の為の参拝であるが、生憎の空模様。
前回なんかは、すごく天気が良かったのだが。うまくいかないものだ。
きっと、また来ることになるだろうな。

ともかく、参拝と写真を撮影する。
その後、御朱印をお願いに社務所に伺う。
実のところ、過去に御朱印は頂いているのであるが、
今年になって入手した戦前の朱印帳で、前の持ち主が回れなかった神社は
代参のつもりで回ろうと思っていたので、そちらで御朱印でお願いする。

ところが、あれだけ人の気配がなかった神社に七五三のお客さんが多数押し寄せる。
予約の時間が迫っているのか?
ご神職の方は、御朱印は対応したくないような弁である。
うーん、気持ちは分からなくないけど、それを表に出してはダメでしょう?

とりあえず、「御祈祷が終わるまで待ちます」と言ったところ
諦めたのか別の方が対応してくれることになった。
ご神職の方なのだろうか?氏子総代さんのような感じもする。

その間に、ご神職の方は、御祈祷の方々と一緒に、拝殿の方に上がっていかれた。


神職とは言え、生活があるので、文句は言えないでしょうが
全国に名が知れている神社でもあるので、対応の方法は勉強しておいた方が
いいかな〜と、自分が思うのも変であるがそう考えさせられる出来事であった。

じゃ、「お前はできるのか?」という質問には、「当然できません」とお答え致します。
まだまだ修行が足りません。
 人に処すること藹然 
はー、分かってはいるんですが


それと、やっぱり、この時期は参拝には向かいない。



與止日女神社につづく
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筑前・肥前紀行 2日目(宝当神社) ( No.8 )
日時: 2009/12/08 00:00:18
名前: 御津垣  ID: qa/kzJVI
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2009/12/12 20:29:23

「宝当神社(ほうとうじんじゃ)」

−御祭神−
 野崎隠岐守綱吉命

−御由緒(参拝の栞より)−
 天文二十三年(1554)
  信州諏訪の国に生誕。
  生まれつき才能があり、哀れみの心も厚く、道義もわきまえ、
  礼儀正しく勇気と力を持ち、当時の人は偉丈夫であると称していた。

  豊後の大友義鎮(おおとものよししげ)公につかえ、数度の軍功著しく、
  恩賞を戴く。
  ◎義鎮公は後に大友 宗麟(おおともそうりん)を名乗る。
  大友義鎮公は、肥前国草の城主として草野鎮永(くさのしげなが)に
  迎えられる。


 元亀四年(1574)三月二日
  草野城は、龍造寺隆信率いる5400騎に取り囲まれる。
  野崎隠岐守綱吉と原瀬久太郎久国(はらせきゅうたろうひさくに)は、
  やおもてに立ち奮戦する。これにより、龍造寺は勢力を失い敗走した。
  草野城はこれで安堵をしたが、草野家の老臣は綱吉の勇力を恐れ、ねたみ、
  主家に綱吉の居場所が無いよう仕向ける。

 九月二十一日
  綱吉は、やむを得ず三人を引き連れ、夜陰に紛れ小舟を操りここ高島に
  たどり着く。

 十月二十九日
  龍造寺は、再度草野城に至り連戦の末、草野城を陥城した。(平原の合戦)
  綱吉は高島に移り住みし頃である。
  当時世の人は、筑前国吉井の海賊、火山神九朗(かざんじんくろう)の
  猛悪異名に恐れおののいていた。ある日の事、吉井荊娯(よしいけいご)が
  神九朗の手下三十余人を率いて、高島の人家を襲った。
  穀物や金銭を強奪し、船に積み込み、とも綱を解き、浜辺を去ろうとして
  いた。これを聞きつけた綱吉は、浜辺に走り出て飛鳥の如く賊船に飛び乗り、
  帆柱を引き抜き横一文字に振りまいた。賊徒は、その場になぎ倒され、
  各自物を取って綱吉たちに向かってきた。綱吉は車輪の如く早業で投げ
  飛ばし、骨折、転倒、流血負傷を負いながらも、賊徒を倒した。
  生き残った者はわずか五人であった。五人は、強奪した物を前にして
  命乞いをし、綱吉は、それをねんごろに諭し許した。
  その後遠近の賊船は、綱吉の勇力を聞き二度と高島を襲うことは無かった。


 天正十二年(1585)
  綱吉の嫡男、吉道(幼名 馬之助)高島において生誕。


 天正十三年(1586)八月二十三日
  綱吉は、にわかに病に冒され再起することが出来ず、高島において逝去。
  (享年三十二歳)
  島民は、綱吉の弔いを厚くし祠を建立し島の大権現をして祀る。


 昭和三十四年(1901)
  島の産業である製塩業が盛んになり島が潤い利益をあげた時、お礼として
  綱吉を祀った当神社を当島の宝と称え『寶当神社』と記した石造りの鳥居を
  奉納した。この頃より宝当神社(ほうとうじんじゃ)と呼ばれ親しまれて
  きました。
  その後、平成に入って当神社の縁起がよい『寶当(ほうとう)』の文字に
  あやかって参拝される方が増え、お参りをされた方の中から宝くじの
  高額当選者が多数出て、テレビや雑誌などに紹介され、宝くじが当たる
  神社として一躍有名になりました。現在では全国から年間二十万人もの
  参拝者をお迎えしています。


由緒書というより、経歴書ですね。
コメントしづらい。。。


2日目の朝。ホテルの部屋から外を覗く。空は雲に覆われている。
昨夜は、目当てのイカも食べられなかったし 。ちょっとブルー。

とはいえ、今日は年末ジャンボに備えての「宝当神社」参拝である。
もともと、こちらに参拝するつもりはなかったのだが、
同僚達と話しているうちに、「じゃあ、俺が先に行ってみる。」
ってな感じで今回の行程に入れることになったのである。
まあ、お祭りです。勢いです。

しかし。。。
金華山黄金山神社、大宝八幡宮、そして宝当神社。
金の亡者だな〜。


ともかく、唐津始発(7:50)の連絡船に乗りたいので、
さっさと準備をするつもりでいたが、ホテルから船のでる桟橋までは5分程度。
駐車場を探すリスクを考えても7:30にでれば問題ない。
というわけで、朝食をてんこ盛りで食べることにする。
昼は、いつになるか分からないし。。。

さて、朝食後は特にすることないので、ちょっと早いが出発することにした。
桟橋には7:20くらいに到着。が、案の定駐車場が見当たらない。
案内板を確認すると、近くでは対岸の唐津城前にしか駐車場がないようだ。
唐津城側にまわり有料駐車場に停め、改めて桟橋側に渡ってくる。
でもまだ20分は待つのね。

さて、やっと時間になり200円払って船に乗り込む。
定刻通りに出港。船内からはあまり眺めはよくない。船外は?という質問には
寒くて出たくなかったので分かりませんとお答えしておきます。m(_ _)m

約10分で高島に到着。港の案内板に沿って宝当神社を目指す。
が、もともと適当な人間。当然迷う。ふっ、迷ってから地図を見るのが
自分の流儀なのさ。
神社の裏手まで来てしまったようだ。墓地を突っ切って神社前の道に合流。
あとは、真っ直ぐいけば神社。そしてようやく到着。

早速参拝。こちらの神社は誰でも昇殿して参拝してもいいようだ。
拝殿には色々と宝くじ当選の記事や、お礼が掲げられている。
自分も懇ろにお祈りしてと。
「どうぞBIG6億円と、年末ジャンボ3億円が当たりますように」
(どこまで欲深いのじゃ、おまえは。)
あー、具体的には違うのだが、まあまあ。

その後、社務所にて御朱印をお願いする。
が、今日に限って(とのお話)宮司様は不在とのこと。
なんですかそのねらった感じ。
ともかく書置きの御朱印を分けて頂きます。
う〜ん。日付部分だけがあんまり。。。

参拝・写真撮影が終わり港に戻ります。
8時の到着であったが、9時には出港と決めていた。
なぜなら、その後は10:45まで船はないからだ。時間がもったいないし。
しかし、港への帰り道に、なにやら怪しい店が。。。
猫が一杯いる。なに!ご利益がある猫がいるって?
それは寄っていかなくてはならない。
そして、お約束の物品を購入しまた神社に戻る。
これで、当選は約束されたも当然。わっはっはっは。
(どこかで見た文章です。。。ごめんなさい

さて、あちらの世界から無事生還した自分は、
港に戻り購入品のおまけでついてきた当選(するであろう)宝くじを
胸に抱きしめ帰路についたのである。

次は、呼子の田島神社である。



つづ
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○肥前國 式内社・国史見在社の情報整理 ( No.7 )
日時: 2009/12/07 20:40:51
名前: 御津垣  ID: YuJF92qg
編集: 【回数】 21回   【名前】 神楽  【最終日時】 2020/04/21 16:00:19

分かり次第、修正・追記致します。
また、ご指摘頂ければ幸いです。


〜延喜式内社〜
松浦郡 田嶋坐神社 名神大
田島神社(佐賀県唐津市)
駐車場:あり


松浦郡 志々伎神社
志々伎神社(長崎県平戸市)
駐車場:あり※中宮

基肄郡 荒穂神社
荒穂神社(佐賀県三養基郡)
駐車場:あり


佐嘉郡 與止日女神社
與止日女神社(佐賀県佐賀市)
駐車場:あり
特記:
  上宮:肥前大和巨石パーク内



〜日本三代実録記載社〜
久治國神
八坂神社(佐賀県杵島郡)
駐車場:あり


天山神
天山神社(上宮)(佐賀県小城市)
駐車場:?

天山社(下宮)(佐賀県小城市)
駐車場:あり

天山神社(下宮)(佐賀県小城市)
御朱印:?


温泉神
温泉神社(長崎県雲仙市)
駐車場:あり


金立神
金立神社(佐賀県佐賀市)
駐車場:あり
特記:
  中宮:教育キャンプ場入り口付近
  上宮:金立山
  奥の院:金立山頂上


稻佐神
稲佐神社(佐賀県杵島郡)
駐車場:あり


堤雄神
堤雄神社(佐賀県杵島郡)
駐車場:あり


丹生神
丹生神社(佐賀県嬉野市塩田町大字馬場下)
駐車場:あり

丹生神社(佐賀県嬉野市塩田町大字大草野)
駐車場:あり


甘南神
甘南比神社(佐賀県佐賀市)
駐車場:あり


宗形天神
宗像神社(長崎県平戸市)
駐車場:なし

宗方神社(長崎県諫早市)
駐車場:なし


白角折神
白角折神社(佐賀県神崎市)
駐車場:なし

仁比山神社(佐賀県神崎市)
駐車場:あり


葛木一言神
葛城神社(佐賀県三養基郡)
駐車場:あり


神嶋神
神嶋神社(長崎県北松浦郡野崎郷)
駐車場:なし
特記:
  沖ノ神嶋神社(沖津宮)

神嶋神社(長崎県北松浦郡前方郷)
駐車場:?
特記:
  地ノ神嶋神社(辺津宮)


鳴神
賀茂神社(佐賀県唐津市七山)
駐車場:あり


銀山神
金山神社(長崎県雲仙市)
駐車場:?



〜肥前國風土記記載社〜
永世神社
永世神社(佐賀県鳥栖市)
駐車場:あり


姫古曽神社
姫古曽神社(佐賀県鳥栖市)
駐車場:なし

媛社神社(福岡県小郡市)
駐車場:あり
筑前・肥前紀行 1日目(高祖神社) ( No.6 )
日時: 2009/12/04 23:54:47
名前: 御津垣  ID: qa/kzJVI
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2009/12/12 20:30:18

「高祖神社(たかすじんじゃ)」

−御祭神−
 主座 彦火々出見尊
 左座 玉依姫命
 右座 息長足比女命

−由緒(高祖神楽鑑賞の栞より)−
 高祖神社は彦火々出見尊を主座に、左座に玉依姫命、右座に息長足比女命の
 三柱をお祀りする神社で、いま創建の時を詳かに出来ないが、九州諸将軍記に
 は「神代より鎮座あり神功皇后、三韓より凱旋の後、当社の社殿を乾の方に向
 け御建立」と記されている。
 この機縁で神功皇后を相殿にお祀りしたと伝えている。
 当社は、古代から怡土郡の惣社(中世には怡土庄一の宮)と崇敬される神社
 で、三代実録には、いまから千百五年前の元慶元年九月二十五日発亥「正六位
 高礒比賣神に従五位下を授く」と記されている。この高礒比売神とは高祖神社
 のことで、相殿に玉依姫命、息長足比売命をお祀りしてあるので、このように
 呼ばれたと語り伝えている。

 明治五年十一月怡土郡郷社、大正四年十一月神饌幣帛料供進社、大正十五年
 六月二十九日県社昇格、昭和二十八年七月二十日、域外境内社としてクヌギ幸
 神社、庚申社、浦方天神社を含め宗教法人高祖神社を設立し、高祖区民の崇敬
 を集めている。
 また境内神社として伊弉諾神社・思兼神社・農業、特に畜産農家の信仰厚い
 徳満神社の三社がある。



さて、いよいよ本日最後の高祖神社。
到着は、15:40。途中 道路工事で、迂回させられた。
こうなると土地勘ないところではな〜。
ナビも細かいところまではサポートしてくれないし。
運よく枝切ししていた人がいたので、道を聞いて到着した次第。

到着したが、一の鳥居とかは大分下の方みたいだ。
うーん。違う道できてしまったか。まあ仕方がない。あとで写真撮りに降りよう。
しかし、人気がありませんね ここも。
たしか本務神社のはずなのですが。

ともかく参拝です。手水まで戻ってと。
その後写真撮影。生憎空は雲ってきている。
隙間はあるのだが。。。いい具合に光線は降りてこない。
満足には、ほど遠いが現状では。。。
そんな感じの出来であった。

さて、御朱印のほうですが、拝殿前に連絡先が書いてあったので
連絡を入れます。御朱印はご対応頂けるとのこと。
とりあえず、ご自宅に伺うことになった。
どうも石段の下の方らしい。
社頭の写真も撮りたいし、丁度いいか。
車で降りるとはお話したが、石段を歩いていくことにした。

社頭近くの宮司様のご自宅に伺う。生憎宮司様はご不在のようだ。
奥様が快く対応してくださった。御朱印をご用意頂いている間、
庭先の柴犬と暫し戯れる。この犬かわいい♪。
その後、御朱印と栞を頂く。なんでも午前中にも御朱印をお願いしにきた
人がいたと仰っていた。めずらしいことらしいが、由緒ある神社ですし、
需要はあると思いますよ。

「そんな遠方からわざわざ」と労いのお言葉と、お土産に沢山のミカンを頂いた。
ミカン美味しかったです。

その後、お客様が見えたれたので退去することに。

あれ、なんか光線がいい具合におちてきている。
急いで写真撮影に戻る。
ふうー、まあまあかな。多少は我慢しましょう。


さて、時間も時間。神社参拝はもう無理。
宿に向かいましょう。今日の宿は唐津市街である。
時間もあるし海岸線の国道を走らせて向かうことにする。
明日は、ちょっと天気が悪いとの予報。
雨降らないといいな。



2日目 宝当神社につづく
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筑前・肥前紀行 1日目(産宮神社) ( No.5 )
日時: 2009/11/29 21:57:43
名前: 御津垣  ID: qa/kzJVI
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2009/12/12 20:31:22

「産宮神社(さんのみやじんじゃ)」

−御祭神−
 奈留多姫命
 鵜鵜草葺不合尊
 玉依姫命

−由緒−
 御祭神奈留多姫命は御懐妊に当たり大いに胎教を重んじられ、
 母玉依姫・おば豊玉姫の産育の瑞祥あるを尊重され、両神の前に「月満ちて生
 まれん子端正なれば永く以て万世産婦の守護神とならん」と誓われました。果
 たしてお産に臨んで心忘れたように何の苦しみもなく皇子神渟名川耳命(第二
 代綏靖天皇)を安産されました。
 以後「産宮」と称え安産守護の神様として広く崇敬をあつめてきました。

−百手の的射のいわれ−
 後年神功皇后は三韓遠征の砌、当神社に産期を延べん事を祈ら
 れました。其の験あり御帰国後皇子(応神天皇)を安産なさいました。報祭
 の為二月二十五日神前に「百手的射」を行われたので、現在に至る迄神職・氏
 子により的射の神事が例祭に併せて行われています。


波多江駅の南東に鎮座。ご利益は「安産」と「育児」。
同じご利益で有名な、宇美八幡宮よりも古い由緒を持つ。

ちなみに、先に訪ねた式内「志登神社」を兼務されている神社でもある。

神社自体には迷わず到着。
鳥居の前の駐車場に車を停めて、参拝を開始する。
七五三で、対応して頂けないかもしれないとの不安はあったが。

それにしても、駐車場の前のゲートボール場が賑やかだ。
こちらのご老人はアクティブである。元気で何よりだ。


さて、参拝も写真撮影も滞りなくすることはできたが、
ご神職の姿は境内に見えない。本務神社だし、掃除等行き届いているようだし
近くにはお住まいと思うのだが。
タウンページで電話番号は確認済みであるが、
何かないか社務所と拝殿前を見てみる。

拝殿のガラス部分に後ろに宮司宅があると書かれていたので
伺ってみることにした。玄関先には注連縄。ここで間違いはないようだ。
チャイムを押してみるが、反応なし。あれ?不在ですか。
携帯で電話してみる。こちらも反応なし。
あー、ダメみたい。
駐車場に戻ります。

次に伺う場所を確認し、高祖神社に決定。
時間的にも、そちらで1日目は終了になるだろう。
移動の前にどうしても諦められないので、
もう一度電話をする。繋がった!
用件を伝え、ご自宅に再訪することに。

御朱印と由緒書を頂戴する。
その間、応接間にてお茶とお菓子を頂戴した。
暖かいお茶が有難い。

御朱印を分けて頂いた後に、色々お話を頂けた。
残念ながら兼務の志登神社の御朱印等はないようだ。

産宮神社の由緒としては、由緒書にない部分として、元々は
もっと山麓にあったものではないかとのこと。
そのあたりの資料として、
 「平原弥生古墳 大日霊貴尊の墓」(上下巻) 著者:原田大六
を、ご紹介頂いた。
 ※天照大御神の墓についての論文の為、色々と学者間で
  あったようだ。
  中央からは異端と見られていたようだが、さてはて。

有難いお話を頂戴していたところ、七五三の参拝者があったようで、
お邪魔にならないようにお礼をのべて立ち去ることにした。


さて、いよいよ本日最後の高祖神社。
それほど離れてはいなので、なんとか写真が撮れる時間には
間に合うでしょう。


つづく
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筑前・肥前紀行 1日目(志登神社) ( No.4 )
日時: 2009/11/19 18:04:54
名前: 御津垣  ID: 2SJHvLvo

さて、志賀島でまったりしたので、ちょっと予定変えないと無理かな?
本来は南区の神社に寄ってから、前原に向かう予定であったが、南区は諦める。
また、高速を積極的に利用することにする。

「志登神社」
筑前国怡土郡の式内社である。予想外に何の迷いもなく到着。
駐車場が広い。神職も不在の神社であるが、立派な駐車場である。
すでに3台ほど車が停まっている。七五三参拝者か氏子さんが掃除でもしている
のだろうか?境内の方に人の気配がある。結構賑やかな感じ。「?」
ともかく、鳥居から写真撮影。参拝を開始する。二の鳥居まできて、境内の様子
がようやく分かった。ゲートボールをしているようだ。
そんな〜拝殿の前を一杯に使ってやらないでよ〜。今回写真は難しいか?。
もっと近づく。どうも、ゲートボールではないようだ。
これは、グランドゴルフというものだろうか?境内一杯を使ってコースを作って
いるようだ。拝殿・本殿の周りをコースにして、半時計回りにまわっている。
これなら写真撮影も問題ない。裏にまわっている間に撮影してしまおう。

20人は居たであろうか。このグランドゴルフ 意外と運動量があるようだ。
面白そうなのでちょっと眺めてから移動することにした。
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筑前・肥前紀行 1日目(志賀海神社) ( No.3 )
日時: 2009/11/17 22:18:55
名前: 御津垣  ID: 0kfUhEEU
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2009/11/17 23:32:01

「志賀海神社 仲津宮」
勝馬小学校裏手に鎮座。なんの迷いもなく到着。
目の前の海には、小島と沖津宮の鳥居も見ることもできる。
鳥居の扁額には、勝馬宮の文字。
時間もあるので、ゆっくりと参拝、写真撮影。

「志賀海神社 沖津宮」
勝馬の沖津島に鎮座。鳥居は対岸からも伺えるのだが。
大潮の干潮時しか渡ることができない。
今日は、一応大潮。この近海の干潮時間は、12:58頃。
時間はまだまだ2時間もあるので、簡単に写真撮影して
勝山の表津宮に伺うことにした。

「志賀海神社」
言わずと知れた官幣小社 志賀海神社。
一の鳥居が商店街の先にあるとは知らず知らず、3回は訪れているのに。。。
今回は4度目の正直。神社の駐車場に車を停めて、商店街を歩くことにする。
とりあえずは、写真を撮ろうと思ったが、石段前には、軽自動車が停まっている。
景観が損なわれて残念である。地元民自ら観光資源を潰しているようだ。
すぐ駐車場があるのに、なぜその手間がかけられないのであろうか?
とりあえず、ワザとらしく軽自動車のナンバーをしばらく撮影する。
(ネットでさらし者にする気はないけど

さて、気を取り直して、一の鳥居を目指す。
この参道商店街、歩くと長い。。。さて、やっと鳥居に到着。
うーん。ここにも車が。。。ああ、面倒。もういいです。
あきらめて、車が極力写らないように写真を撮影。
ちょっとは気を利かせてほしいな。地元の人には日常生活の一部とはいえ、
それをしないと生活できないものではないのだから。

鳥居の撮影が済み、参道を神社に向けて戻ることにする。
途中、見たことのある軽自動車が向こうから走ってくる。
あれ?もしかして邪魔だった車かな〜と考える。期待していくと
やはり例の車だったようだ。気を取り直して写真撮影を。
その前に先ほどのナンバーは全て削除っと。

そんなことをしていると、どっかのお爺さんが、左側から石段前に歩いてくる。
なんか立ち止まる。そして、なかなか動かない。おーい。
目頭が熱くなる。なにも言いたくない。



参道を進む。拝殿では御祈祷中。ちょうど七五三の御祈祷中なようだ。
参拝して、写真撮影。まあまあの出来かな。

さて、沖津宮に戻ることにする。でも、まだ干潮には1時間の余裕があるのだが。
石段下まで戻ってくると、さきほど硬直していたご老人はすでにいかれたのか
いらっしゃらない。最後に写真を撮って移動する。


今回は、何回島を周回するのであろうか?
さて、やっと到着(いや戻って)。まだ1時間以上。。。もう疲れる。
車の中で寝ることにする。思えば全然寝てないし。

さて、10分前 島の方に行ってみる。
一人太公望が島の方に行きたそうに立っている。
島まではたかだか30m程度。しかし水位はまだある。
これって無理?試しに聞いてみる。
「今日は水無くなりませんかね?」との問いに、
「今日は無理だね。波がなければ歩いて行けるんだけど」とのこと。

干潮予定時間過ぎ。全然ダメ。ちなみに神社に問い合わせしてみる。
「5〜6月くらいの規模の大きい大潮ではないと無理です」との回答。
(ちなみに、その後、気象庁HPで予報を見てみたが、3月が一番ぽいです)

あーあ、ダメでしたか。結構時間無駄にしちゃったな。
まあ、こんなノンビリもたまにはいいかな〜と思うことにし、
前原市に向かうことにした。


つづく
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