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関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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[12] 【中国】神社・御朱印情報
日時: 2009/12/26 12:10:00
名前: 御津垣  ID: 5rUlEDtM
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2013/01/28 20:53:11

鳥取県、島根県、岡山県、広島県、山口県 5県に関する
遠征報告・御朱印情報をお願いします。
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隠岐後記(蛇足) ( No.26 )
日時: 2012/07/21 17:41:10
名前: 御津垣  ID: W9icsvT.
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/07/21 22:17:41

最終日の比奈麻治比賣神社で
会った関係者のブログがありました。

http://happy.ap.teacup.com/applet/miho56/20120419/archive

隠岐式内社巡拝 5日目(3/3) 完 ( No.25 )
日時: 2012/05/22 19:56:46
名前: 御津垣  ID: VYI09vps
編集: 【回数】 4回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/06/06 22:27:56

隠岐式内社巡拝 5日目 その3(完)



『黒木神社』12:15
別府港を越えて碧風舘前に車を停める。
あれだけ存在を主張していた水溜まりはもうない。
見付島もよく見える。

白鳥居には、やはり空の青が映える。
写真を撮る方としては嬉しい限りである。

さて、先日はもやっていて望みようもなかった展望台からの風景であるが
うーん、それほどでもないかな?
それよりも脱ぎ捨てられたバイク用ジャケットが気になる。



『海神社』12:30
すでに仮設トイレはない。
祭りが終わり役目を終えたのであろう。
誰もいない境内をゆっくりと参拝する。



『眞氣命神社』12:40
こんどは、港に車を停車して歩いて社殿に向かいます。
歩いてみると結構離れている。雨の日に歩くという選択はなかなか難しい。
竹林からもれる日が気持ちいい。
苦労して歩くからにはこういうご褒美は必要ですね。



『比奈麻治比賣神社』13:00
海側の鳥居より写真を撮影する。
別府港から出航したフェリーが間近を通っていく。
フェリーの向こうには三郎岩が見える。海の透明度が高い。

鳥居の撮影後、社殿へ車を動かす。
なにか社前には多くに車が停まっている。
作業をされているようだ。
二の鳥居前には発電機が置かれている。

拝殿前には姿は見えないが、裏に回っていると大勢の方々。
どうやら氏子さんらが、本殿との回廊の屋根を改修しているようだ。
写真を撮影していると、「いい男に撮ってね」などと。
本当に隠岐というところは、気のいい人間ばかりのようだ。

拝殿に戻り昇殿して参拝させてもらう。
先日失敗していた扁額の写真を慎重に撮影する。

拝殿をでると、氏子さんの一人が話しかけてきた。
どこから来たのか?なぜここに参拝したのか?とか
クエスチョンマークが浮かんでいる顔つきである。
参拝理由については、すぐに納得してくれた。
だが、どこからについては少々呆れ気味である。

氏子さんと話しているうちに旧地の話に及ぶ。
『濟』にはいまも鳥居やらが残っているらしい。
昔は陸地からも行けたようであるが、今では道もなく
船で海から行く必要があるらしい。
(後日調べると、そのアクセスも藪漕ぎらしい)

簡単に港から行けるよという感じである。
それなら「観光協会」で聞いてみよう。
と深く確認をしなかった。これは後に後悔することになる。

すでに目的の場所は全て回ったので、港に戻り
観光協会に『濟』へのアクセスについて問い合わせすることにした。
駐車場にレンタカーを置いて、清算をすませて観光協会に伺う。
昨日、浦郷へのバスについて教えて下さった女性が一人でいらっしゃった。
こちらの顔も覚えてくれていたので、話を切り出すのは楽であった。

しかし、「濟」という地名には覚えがないようだ。
いまでは人も伺わない場所。
氏子や渡し舟関係者でなければ分からないのであろう。
そのような中で知っていそうな方々に電話を入れて色々話を聞いてくださった。
その中で、数年前に旧地を案内したという人も出てきたが、
体調も悪く案内は無理とのことであった。
また、もう一人よく知っている人がいたようであるが、
外出されているとのことで話を伺うことはできなかった。
氏子さんとのことだったので、恐らく神社にいた話をした人なのだろう。
大変残念なことをしたものである。

当てもなくなり、この時点では諦めることにした。
観光協会に会長もこういう話は好きなので、あとで連絡してくれたら
回答できるかもしれないと言う。
御礼を述べてフェリーターミナルに向かう。
7月に再訪するかもしれないとも伝えて。

フェリーを待っている間に、お世話になりっぱなしの
観光協会のお兄さんが現れた。
事務所に戻って自分の話を聞いて、顔を出してくれたのだろう。
なんでも摩天崖ですれ違った車は自分だったという。
全然気づきませんでしたm(_ _)m

また、焼火神社の宮司さんもいらっしゃったので
今までの御礼を述べて別れることになった。


この後、七類港〜米子空港を経由して、関東に戻ることになった。

隠岐の島。歴史深く、人間味に溢れる島である。
また、思い出すたびに「いつかまた」と思える島であった。



写真
  海神社
  眞氣命神社
  比奈麻治比賣神社
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隠岐式内社巡拝 5日目(2/3) ( No.24 )
日時: 2012/05/19 17:48:35
名前: 御津垣  ID: bx8y5T0g
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/06/17 01:28:06

隠岐式内社巡拝 5日目 その2



『由良比女神社』10:45
こちらの神社はやはり午前中がよい。
午後は逆光になってしまうので。
神事全般は午前中なんでしょうけど。

参拝と写真撮影後、速やかに移動する。



『焼火神社』11:20
もうナビを見なくても行ける。
駐車場に着くと、看板の工事をされている方々がいる。
まあ、誰かというと民宿で一緒になったお三方ですね。
ジオパークの看板を設置しているようだ。

そういえば、摩天崖でも設置されていたな。
あんなところまで台車で材料を運んでいるとは大変だ。

挨拶と、摩天崖でも見ましたよ。と伝えると、
車を上げてほしかったと冗談で返されてしまった。

こちらも登拝と写真撮影。
先日曇っていてほとんど見えなかった知夫里島がよく見える。



『大山神社』12:00
またもや、商店の駐車場に駐車して参拝。

参拝後には、お昼なのでパンとお茶を購入して別府方面に移動する。



写真
  由良比女神社
  焼火神社
  大山神社
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隠岐式内社巡拝 5日目(1/3) ( No.23 )
日時: 2012/05/19 16:10:28
名前: 御津垣  ID: dF.v89Jg
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/05/26 01:58:19

隠岐式内社巡拝 5日目 その1


浦郷『味好』で目を覚ます。
昨日の予報では「晴れ」。障子を開けて港を見る。
空は晴れ渡り雲は少ない。
今日は、よい一日となりそうだ。

しかし、現時間は5時を過ぎたばかり。
さすがに行動を開始するには早すぎる。
7時までもう一眠りすることにした。

7時 本当に起床である。
改めて障子を開ける。あれ?雨が降ってます。。。

巷に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
かくも心ににじみ入る
このかなしみは何やらん?


突如 フランス詩人が舞い降りてきた。
いかんいかん!ヴェルレーヌくん、BLはいかんよ!

ちが〜う!


さてと、雨ですか。。。なんでですか?
さっきまで晴れてましたよね。
すばらしいお笑いサイト、いや失礼。
すばらしい天気予報サイト「ウェザーニュース」を確認する。
晴れてますね。うーん、そうだね。またですよね?
責任者ちょっとこいや!(怒)

ほぼリアルタイム修正する このすばらしい「予報」サイトは
そのうち修正するのだろうから、あとで見て笑おう。


さて、気を取り直して朝食を頂こう。
今回は用意を出来ていたので皆なと同じ大部屋で頂くことに。


朝食を摂りながら、今日の予定を考える。
今日は、御朱印を頂こうという気はない。
晴れたところで写真を撮影しよう思っているだけなので、
晴れるまでは他をまわった方がいいだろう。

近くには、「通天橋」やら「摩天崖」などの観光地がある。
こちらを先に伺うことにした。
旦那さんを世間話ついでに、そちらに向かうことを告げる。
一つアドバイスを受ける。
「馬や牛が通行の邪魔をされるだろうけど、クラクションを鳴らしてはいけない。
1mくらいに近づけば自然に退いてくれる。」とのこと。
なんでも、以前 本土からメルセデスで来た観光客が、クラクションを鳴らして
怒った牛が角で側面に穴を開けてしまったらしい。
なるほど。御礼をしてチェックアウトする。おー、あの料理でリーズナブルです。


『通天橋』8:20
上の駐車場に着いたのは8:00であったが、通天橋に行くには
遊歩道を15分程度歩くことになる。
空は、いまだに雨模様。昨日回収した折り畳み傘が有り難い。
海からの風は肌寒い。小雨もぱらつき、雲で覆われた空以上に心が暗くなる。

晴れていればもっと違っていたのだろうが如何せん。
写真を撮って駐車場に戻る。
やがて雨脚も強まる。
これではどこに行っても仕方ないので車で待機することにする。

。。。
30分は待ったが改善の見込みが見えない。
時間が勿体無いので、通天橋の上部の摩天崖に向かうことにして
車を動かすことにした。



もう少しで摩天崖上部というところでお馬さんにエンカウント!
このお馬さん、海風を受けながら、道路から崖側を物憂げな表情で眺めていた。
渋い渋すぎる!お前はハンフリー・ボガートか?
いや、違う。どいて下さい!
民宿のご主人に教わった通りにゆっくりと車を近づける。
退きません!退きませんよ、ご主人!

待つこと 五分強。ようやく動く。
表情から察するに「仕方ね〜な〜」という感じか?
いやまあいいけどね。
あまりにヒマだったのでつぶやいてしまった。



『摩天崖』9:30
駐車場とその先には数台の車。どうみても観光客のものではない。
駐車場のは、多分トイレの設置工事中。
その先のはなんであろうか?観光シーズンに向けての整備だろうか。

先ほどの駐車場と違い、風を遮るものはない。
海風が車体を揺らす。空の状態は改善に向かっているようである。
もう少し雲が取れるまで車内で待つことにした。

20分後、ようやく活動開始。
すっごく時間無駄にしています。

摩天崖の上部に着く。
空の色、雲の色、海の色、国賀海岸が作る景観が美しい。
ずっと見ていていたい風景の一つになりそうだ。

ただし。。。あたりに目をやれば、そこら中に馬糞やら牛糞やら。
ここは馬糞崖か!改名してしまった(汗)。

摩天崖の崖部分を見るために、通天橋の方へ下りていく。
下りても下りてもなかなか崖を見ることができない。
20分後、ようやくその姿を確認できた。
写真に収め、また登り返す。
上部に戻ったのは、その20分後である。
ここに来るには体力と時間が必要だが、
風景を楽しみながら、ゆっくり歩けばきっと気持ちいい散策になるだろう。


さあ、天気も良くなったので由良比女神社に向かおう。

駐車場からは家族連れが歩いてくる。
子供たちが楽しそうだ。それを見ている親たちの顔もほころんでいる。

通天橋にから来た道へ下りる途中、一台上がってくる車とすれ違う。
車幅がギリギリなので怖いのです。慎重に。

やがて、右に通天橋、左に浦郷というT字路にあたろうという手前。
とうとうもうひとつの強敵とエンカウントした。
牛が連れ立って道を塞いでいる。
はー、ため息が。やり過ごすのには数分を要するのであった。



写真
  通天橋
  摩天崖から国賀海岸
  摩天崖上部
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隠岐式内社巡拝 4日目蛇足 ( No.22 )
日時: 2012/05/07 21:32:55
名前: 御津垣  ID: qKl.cEXQ
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/05/19 15:22:25

4日目 蛇足


赤壁の見学も終わり、あとはレンタカーを返却するだけであるが、
天候の回復はその考えを変えさせた。

実は、赤壁で急いでいた理由はこれであった。
もう一回 神社に撮影に行こうと。
ちなみに来居港返却時間は16:20。
急ごう。

神社への道筋で神島が見える。
天佐志比古命神社の由緒にある島である。
急ぎではあるが車を停めて撮影をする。
あの島には、旧跡とかはあるのだろうか?


『天佐志比古命神社』15:45
滞在時間5分。。。写真撮影のみで急ぎます。


『渡津神社』16:03
島津島の入り口に到着は、15:55。
神社まで走って向う。
ちょっとしたトレーニングである。

到着後、すぐ撮影。滞在4分。
走って車まで戻る。


来居港に到着は、16:20じゃすと!はー心臓に悪い。
観光協会によって返却手続きをし、預けていた荷物を受け取る。
すぐに島内船が出るというではないか。
休む暇もなく船のところに走っていく。
キャリーケースが邪魔だ。


16:26島内連絡船に乗船。
中ノ島菱浦経由で、西ノ島別府港に向かう。
この後の予定は白紙である。当然 宿も決めていない。
西ノ島の観光協会で宿を紹介してもらおう。

17:35西ノ島別府港に到着。
早速、観光協会に向かう。ずーっとお世話になっている職員さんがいた。
安い宿を探してもらう。しかし、西郷港近くはどこも一杯のようだ。

浦郷地区で ようやく民宿が一軒OKを出してくれた。
『味好』という民宿である。夕食は、時間も遅いので無しということだ。
近くに中華料理屋があるという情報を観光協会で教えてもらう。
ついでに観光名所なども。。。

浦郷まではバスで向かうことになる。
町営バスで、バス停以外でも任意の場所で停めてくれる。
料金は均一200円である。
フェリーや高速船にも連絡している。知らなかった。
これは大変便利である。

運転手さんに観光協会に教えてもらった場所を伝える。
出発時間を過ぎても動き出さない。連絡する船が遅れているようだ。
この間にレンタカーを予約してしまおう。
先日車を借りた『どうまえレンタカー』に連絡を入れる。
(ついでに忘れた傘も回収しよう。。。)

明日の朝8:00貸し出しは、今からでは対応できないという。
ただし、今日中ならまだ貸し出しが可能らしい。
事務所は「どうまえ石油」にあるとのことで、
運転手さんに目的地を変更してもらう。


動き出して20分弱 18:30過ぎ
『どうまえ石油』(『どうまえレンタカー』)に到着。
無理なお願いにも関わらず丁寧な対応であった。
無事に車を借りる。ついでに傘も回収。

さて、次は宿泊地である。『亀沢鮮魚店』を目指す。
こちらがやっている民宿が『味好』らしい。
地図を見ると由良比女神社宮司宅からはそれ程離れていない。
港に面した宿のようである。ナビを使うまでもない。
それはすぐに見つかった。

店前の港の駐車場に駐車して伺う。
人が良さそうな女将さんが出迎えてくれる。
女将さんの案内で部屋に上がる。
まだシーズンオフということもあり、宿泊者は自分だけのようである。
港が見えるよい部屋をあてがってくれた。

「夕食はどうされるのか」と心配してくれていたようだ。
「近くの中華料理にいくつもり」と伝えると、
「ここまで来て中華料理では申し訳ない。地物の簡単なものでよければ」
と言うではないか。有り難い話である。お言葉に甘えることにした。

さて、お風呂を頂くころになり宿泊客が入ってきた。
どうも焼火神社や摩天崖などにジオパークの看板を立てている工事の方らしい。
てっきりこちらの方かと思って挨拶してしまったよ(汗)

食事であるが、本来宿泊者は大部屋で夕食を頂くが、
自分の場合は、事情が特殊である。
宿の台所で頂くことになった。
で、肝心の食事の内容であるが。。。「うまい!」
観光客向けではないが、地元の素朴な食材を使った料理である。
実際には、こういうものを食べたいんだよな。
サザエの佃煮やら、すり身で作ったそうだな静岡の黒ハンペンみたいなのやら。
地元の料理を、それはもうこれでもかという感じであった。

新鮮な魚を使った豪勢な料理も確かによい。
だが、2・3泊もするとウンザリである。自分は初日に島後で堪能したしね。
有り難い有り難い。旨い料理に、女将の人柄もあり自然に酒もすすむ。
ビールを空けて、日本酒を頼む。
そうそう、由良比女神社のお神酒もありちょっと分けてもらった。

いや、別府近くに宿が空いてなくて本当は幸運だったのかもしれない。
ちなみにこちらの『味好』。以前は『亀沢鮮魚店』で、
仕出し・弁当・惣菜などもやっていたようであるが、
ご主人の体調を考えて、そちらは今はやっていないようである。


浦郷。
泊まらなければ知らなかったが、
レンタカーや宿もあり別府からの連絡もよいので
(失礼ながら)意外とよい場所である。
なんと言っても由良比女神社や、摩天崖も近いしね。
なんで、こちらにフェリー来なくなってしまったのだろう。
もったいないな〜。



写真
  神島
  天佐志比古命神社
  渡津神社
1336393975-1.jpeg 1336393975-2.jpeg 1336393975-3.jpeg
隠岐式内社巡拝 4日目(4/4) ( No.21 )
日時: 2012/05/04 21:47:37
名前: 御津垣  ID: gajxgn1s
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/10/14 01:03:49

4日目 最終章。


知夫村での神社参拝は終わった。
レンタカーの返却時間にはまだ余裕がある。
せっかくなので観光協会の方に教えて頂いた観光地に向かう。
知夫里島に着いてから曇っていた空にも日の光が戻ってきた。

仁夫地区より西へ道を進む。
しばらくすると案内板があり、左に行けば赤壁とある。
先に赤ハゲ山に向おう。

やがて牧草地帯。いっきに視界が広がる。
頂上展望台が遥か先に見える。
実際には距離はそれほどでもない。
距離を掴めるものがない。錯覚であろう。

再度 案内板。
右折しテキサスゲートを越えて頂上を目指す。



『仁夫里坊跡』14:55
島流しにあった後醍醐天皇は、西ノ島に入る前に、
ここ知夫里島に着船し古海坊、仁夫里坊に滞在したとある。
牧草地帯の様相を呈する赤ハゲ山も、両寺が存在の頃は、
檜樹の森で、昼間でも暗い場所であったという。
なお両寺は、永正元年(1504)檜樹が共擦れし山火事が発生、
ともに焼失したらしい。

赤ハゲ山展望台に向かう道の右側に見ることができる。
古海坊跡へは道が整備されておらず、5分程度野原を歩く。
展望台東側にあるので、上から位置を確認してから伺うとよい。



『赤ハゲ山』15:00
知夫里島の最高峰である。標高は325m。
土壌の赤、樹木がないことによる命名らしい。

頂上に登ればそこは別世界。
見渡せば日本海。島々が見せる景観美。
空の青。海の群青。日の光。雲の白。草の緑。色彩が鮮やかである。
緑はこれからますます深みを増すであろう。
また五月初旬には野大根の花、淡紫色が加わる。

自分以外に動くものはない。
目に映るもの全て独り占めな贅沢な時間である。
(これを読まれている方々には、ぜひ思い出を共有できる方と
行かれることを奨めたい。)

昨日までいた西ノ島が見える。
右に目をやれば、さっきまで居た中ノ島である。
これらの島、実は火山の外輪山の一部。
島々に囲まれた海。これはカルデラであるという。

そう、赤ハゲ山は景観だけではない。
地球の営みを垣間見れる貴重な場所なのだ。



赤ハゲ山を下り、さきほどの案内板に。
案内に従い左折。向うは知夫赤壁である。
海に向う下り道は、他に車もなく走りやすい。
窓は全開。風が気持いい。




『赤壁』15:25
最大200mの絶壁。酸化鉄の岩石の色が特徴的である。
ここでも、火山の名残を垣間見れる。

まあ、そんな説明よりNHK「だんだん」撮影地。
めぐみが石橋からプロポーズされた場所と言ったほうが分かり易いか?
マナカナ。これは自分も分かります。
でも、この時間居ないので見てません。ごめんなさい。


牛が入らないように木枠の中に遊歩道がある。
入口には親切に杖が置いてある。

そろそろレンタカー返却時間が迫る。

壮大な風景に圧巻とされながらも、急いで写真を撮る。
断崖側に柵はない。非常に怖い。
牛対策であれほど立派な木枠を用意されているので少々違和感がある。
いま自分は一人。
いつ火曜サスペンスの音楽が流れてもおかしくない状況であろう?

などと馬鹿げた妄想をしていたことは内緒であるが、
あちらの世界にいる時間はそれほどないのも確かである。
撮影後、さきほどの遊歩道を駆け下りる。
観光客がいるこれからの時期はできないことだろう。貴重な体験である(?)


写真
 仁夫里坊跡
 赤ハゲ山
 赤壁
1336135657-1.jpeg 1336135657-2.jpeg 1336135657-3.jpeg
隠岐式内社巡拝 4日目(3/4) ( No.20 )
日時: 2012/04/24 17:00:28
名前: 御津垣  ID: 5Y4vBCEU
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/06/07 00:14:03

4日目 その3。


菱浦港12:27発 島前島内線いそかぜUに乗船。
向かう先は、知夫里島 来居港。ループ橋が印象的な港である。
到着後、港の観光協会に向かう。
まだシーズンオフということもあり、建物内は閑散としている。
受付の方に、レンタサイクルかレンタカーがないか確認してみると
レンタカーならあるとのことであった。
正直期待していなかったのだが幸いなことである。

レンタカーは、ループ橋、観光協会裏に停まっている。
どうやら「知夫の里」というホテルが観光協会に預けているもののようだ。
軽バン3台にそれぞれホテル名がプリントされている。
荷物を預かってくれるというので、係りの方に預けて
知夫村の中心地 郡地区に向かう。



『天佐志比古命神社』13:30
知夫里島 郡地区に鎮座。
通称 一宮神社(いっくうじんじゃ)。

〜知夫里島観光ガイドより〜
「一宮大明神略縁起」(延応元年 1239)によると、
「天佐志比古尊は、人皇三十二代 用明天皇の時(585〜587)、
仁夫里の南にある島に現れ、すなわち神島なり、これより東向きに小島二つあり、
御鳥居島と申すなり、用明年中から白雉四年まで五十九年間この島に座した。
白雉四年八月十五日、仁夫里の東にある、浜辺の岩の上に上がられたが、
この浜辺は堅く不浄なため、老翁一人来て、陸に上がり給え、と言って案内し、
この森に御鎮座した。この森に繁りたる木々は、この山に住まい寵愛した古木なり。
古来貴神のために献ずべきこの場所に、社を奉じ、迎えたり。
幾万年までもこの山にて守護し給うと言って、その後、行方がわからなくなった。」
とある。

境内にある芝居小屋は、隠岐島前指定文化財となっているようだ。


数年前には本務宮司がいらっしゃったが
高齢の為 引退し、境港市に引っ越されたらしい。
今は、中ノ島の隠岐神社が兼務されている。



『渡津神社』13:50
知夫里島 薄毛地区に鎮座。
式内知夫郡 海神社論社。国内神名帳 和太酒明神であるとされる。
隠岐神社兼務社。

御祭神は、渡津大明神 五十猛命。


薄毛地区にある島津島に鎮座する。
車は、島津島手前に停めて歩いて橋を渡ることになる。
海辺には遊歩道が整備されており、透明度の高い海を見ながら歩く。
(ただ、遊歩道には牛糞がそれは沢山散らばっていた。。。)
途中には綺麗な砂浜の渡津海水浴場がある。
裸足になり波と戯れるのもよいが、砂浜の中にはウニの仲間ブンブクがいて危ないらしい。
それにしてもおもしろい名前である。


歩くこと10分。海水浴場の対岸 渡津神社に到着する。

島の伝説には以下のようなお話がある。
渡津神社の神様は女神様で、天佐志比古命と結婚し、お産の時に用いた桶が
桶島になったという。その後、訳あって離婚され、別れの際に、天佐志比古命が
島津島で風待ちをしていると、船が化して船島になり、
錨も笠もそれぞれ錨島、笠島に化してしまった。嫉妬深い渡津神社の女神様の
仕業らしい。天佐志比古命に付き添っていた女神も、風見姿岩になり、
これは女神の姿を残していたが、船乗りが持ち去ろうとして壊してしまった。


近くには、「お松の碑」が立つ。
隠岐民謡の代表作「ドッサリ節」を作った女性といわれている。
その昔、知夫の港が日本海航路の要所であった頃、お松と言う女性が、
寄港していた新潟生まれの船頭と恋仲になり、その男が唄う北国特有の追分節を
よく聞いていた。船頭は再度の渡島を誓って新潟に去ったが、いくら待っても
現れず、追分節を思い出しながら、気持ちを唄ったものであるという。

島にはよくある話なのか?
小野篁の話といい悲恋伝説が多い。
今も昔も、みんなコイバナが好きだな。。。



『大山神社』14:25
知夫里島 仁夫地区に鎮座。
式内知夫郡 大山神社論社。隠岐神社兼務社。

御祭神は、大山大明神 柴木彦明神。


〜知夫里島観光ガイドより〜
「一宮大明神縁起」には、
「人皇四十二代、大宝二年(702)九月二十四日に見越(仁夫の地名と思われる)
牧の内、坂の上の大木森々たる中に大山住尊現れ、則を頂き、
その森を大山大明神として迎え奉った。仁夫里に座すはこの御神なり。
万民この神霊を尊び敬うことはもちろんで、万民御神の恩沢を蒙ること天地に等しい。
そのいちじるしき事を教えようとしても、一朝一夕に成り難く、
神秘のことは把握し難く、誠に此書は大海の一滴、九牛の一毛なり。あなかしこ。」
とある。


仁夫の港にある公園に車を停めて神社まで歩く。
港から山に2本延びる道が合流するあたりが鎮座地である。
参拝後に地元のオジサンに捕まる。めずらしいかったのだろう。
神島のことや、一宮神社先代宮司さんの情報等を教えて頂けたので
よい出会いであったと思える。



写真
 天佐志比古命神社
 渡津神社
 大山神社
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隠岐式内社巡拝 3日目(3/3) ( No.19 )
日時: 2012/04/23 13:21:24
名前: ひぐらし  ID: 9i4/qNog

こんにちは

二日間お付き合いありがとう☆ございました
お陰様で楽しくて楽ちん(???)なお参りが出来ました。
いやーほんまにイロイロあって…ダメ幹事丸出しでしたけど他の参加者さんに“楽しかった出す。”と言われて救われました

それかと…お昼は私のおごりではなく後でしっかり割り勘にしましてん

ではでは又よろしくお願いいたします♪
隠岐式内社巡拝 4日目(2/4) ( No.18 )
日時: 2012/04/23 10:24:37
名前: 御津垣  ID: VYI09vps
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/06/06 21:55:03

4日目 その2。


隠岐神社を後に、島の北端「宇受賀」を目指す。
県道317号線より途中 海士小学校を越えたところで左折し
宇受賀地区に向かう。
左手に住宅地を見ながら走る先に鳥居が見えた。



『宇受賀命神社』9:35
中ノ島 宇受賀地区に鎮座。
隠岐に四つある名神大社の一つである。

〜隠岐神社HPより〜
島内の伝説には、西ノ島の神社の神さま 比奈麻治比賣命の美しさにひかれた宇受賀命は、
同じく姫に求婚する大山神社の神さまとの力比べに勝利したことにより、姫と結ばれたとあります。
そして、この姫との間に御子神 柳井姫、その御子神は同じ島の豊田地区にある
奈伎良比賣神社の御祭神になったとされています。


刈り取られた水田の中に、長く細い参道と白い鳥居。
丘上には拝殿と、その屋根の上に隠岐造の本殿を見ることができる。

社家は、宇津賀氏、今の村尾氏が継承している。
(現在は隠岐神社が本務のようである)


燈籠の脇にある農作業用スペースに駐車して参拝に向かう。
二の鳥居までのコンクリートの参道には、奉納幟を立てる鉄ポールが並ぶが、
その他は、参道というより軽トラックを乗り入れる農道といった感じである。
農繁期には、そのように使うこともあるのであろう。

二の鳥居を潜ると真新しい狛犬たちが迎えてくれる。
拝殿・幣殿は瓦葺である。目だった特徴といったものはない。
本殿は、銅板葺の三間社隠岐造。拝殿より一つ高い台地に建っている。
昭和37年までは茅葺だったようであるが、その面影を見ることはできない。

拝殿前には神社の説明とは別に看板があり、海士町の有形文化財の記述がある。
『有形文化財 書籍第一号「大般若経」』とある。
中世期に入って地方の社寺で行われるようになった大般若経の転読は
この宇受賀命神社でも行われ、五穀豊穣のご祈祷として恒例の祭事として
執行されていたようである。



宇受賀神社を後に、島の西へ向かう。
牧場地帯の細い道路を通り県道317号線に戻る。
金光寺山を大分過ぎてから通り過ぎたことに気づき反転する。
まもなく豊田地区の看板を見付け右折する。
地区の中心地 港まで進み 山側にようやく鳥居を見つけることができた。



『奈伎良比賣命神社』10:00
中ノ島 豊田地区に鎮座。

〜隠岐神社HPより〜
「名神大社 宇受賀命神社」の御子神とされる神社。
伝説によると、御祭神の奈伎良姫は伊予の国から出航したところ、
日本海を航行中に暴風雨にあって方向を見失われました。
困っていると、はるか彼方に火の明りが見えたので、
これに向かって船を進めたところ、無事に島にたどりつくことができました。
翌日、仮の宿から集落を眺めると、朝日を拝む、海に開けた土地でありました。
姫はこの場所をたいそうお気に入りになり、
豊かに稲がみのる場所 豊田(とよだ)と命名し、ここに社を建て、
産土神として鎮まることとなったそうです。
一部の説には、奈伎良姫は柳井姫の別称であるともされています。
いずれにしても、農林漁業の幸と航海安全の女神とされ、
また安産、子育ての神とされ信仰されています。


奈伎良姫は柳井姫の別称とあるが、
国内神名帳では
 「奈伎良姫大明神(従一位)」と「柳井姫大明神(従四位上)」
のように別に記載があるのだが?


社頭のちょっと広くなっているスペースに車を停めて参拝に向かう。
二の鳥居の脇に駐車場もあったのだが、事前に知らずにここまで
車を入れる気はおきない。西ノ島での出来事の影響であろう。

参集所らしきものもあるが、なにか新興宗教的な香りを放つマークが見える。
こちらの神社も隠岐神社の兼務社なので、神職が常駐しているわけではないが、
参拝後に寄る事にして神社に向かう。

境内は雑草はなく、苔生した趣のある景観である。
苔生すとあるように湿気が多いようで、拝殿・本殿に傷みが感じられた。
また、夏は藪蚊が大変であろうと変な想像も巡らせてしまう。

参拝後、参集所に向かう。
扉には鍵が掛かっており、呼び鈴にも反応はなかった。
駐車場には一台軽自動車が停まっていたのだが。。。


さて、中ノ島豊田といえば、「小野篁(おのたかむら)」であろう。
平安時代前期の官人であるが、古今和歌集や百人一首にもその作が
採録されている歌人でもある。

遣唐正使 藤原常嗣により、副史 篁の船と交換されることとなり、
これに抗議、病身などを理由に乗船を拒否する。
その後、大宰府で嵯峨上皇を諷する漢詩を作り、上皇の怒りに触れて
官位を剥奪され隠岐に配流となった。

豊田地区には、その篁の住居跡がある。
また、この地で詠まれたという歌が古今和歌集に採録されている。

古今和歌集 巻十八
「思ひきや ひなの別れに 衰へて あまの縄たき 漁りせむとは」
−考えてもみなかったことだ。鄙びた田舎で心身ともに弱り果て、
 漁師の網を使って魚を取ろうとは。


なお、近くの『金光寺山』六所権現では、
百日の参籠祈願を行っているらしい。「都に還らせ給え」と。
その後、島後の那久光山寺(壇鏡神社の近く)に移り、
都万目の娘で阿古那(あこな)との悲恋物語の伝説を残しているようである。


ちなみに隠岐へ配流される際に詠まれた歌もある。
参議篁 小倉百人一首11
「和田の原 八十嶋かけて 漕出でぬと 人にはつげよ 海士の釣舟」
−とおく海原をたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまった。
 そのように都にいる人々に伝えてくれ。漁師の釣り船よ。

難波で詠まれたものであるとされるが、
漢詩は大宰府で作ったというのと一致しないのではないか?
一旦、都に戻っているのか。



『健須佐雄神社』10:20
中ノ島 海士地区に鎮座。
「日本三代実録巻四十五元慶八年三月廿七日戊子」に
神位従五位下を賜っている由緒のある神社である。

海士中学校の南側であるが、鳥居は山の中腹にあり木々に覆われていて
近づかないと見知ることはできない。

農業水路脇に車を停めて階段を登る。
結構長く感じたが、3分程で拝殿に到着する。
途中 鳥居の扁額には「新宮神社」とあった。
拝殿外側には特に神社名を示すものはない。
賽銭箱もないので拝殿の扉を開けさせて頂く。
同時に「健須佐雄神社」という額を見つけ胸をなでおろす。



この後、連絡船の時間もあったので隠岐神社に戻り御火葬塚などを見学する。
レンタカー返却後は、「キンニャモニャセンター」で昼食を摂ることに。
名物の「寒シマメ丼」を食す。



写真
 宇受賀命神社
 奈伎良比賣命神社
 健須佐雄神社
1335144277-1.jpeg 1335144277-2.jpeg 1335144277-3.jpeg
隠岐式内社巡拝 4日目(1/4) ( No.17 )
日時: 2012/04/21 19:59:28
名前: 御津垣  ID: a4pDPiV6
編集: 【回数】 7回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2012/04/22 10:08:24

4日目 その1。


中ノ島の朝。今日は、中ノ島・知夫里島を巡る予定である。
昨日と違って、幾分寂しい一人旅に戻った。

早々にチェックアウトし、レンタカー事務所に向かう。
菱浦港云々と書かれていたので港施設「承久海道キンニャモニャセンター」
内を探す。しかし、それらしいものは見当たらない。

仕方ないとPCを立ち上げて場所を確認する。
どうやら港前の施設らしい。
改めてそちらに向かう。丁度 職員の方がレンタカーを整理している。
事務所は二階らしい。手続きを済ませレンタカーを借りる。
ちなみにここは島後でも借りたレンタカー会社であるが、
レンタカーの質はいまいちである。
ナビもゴリラの旧型で操作性も悪く見難い。使用は諦めた。
スマホのナビを使用して目的地に向かう。



『隠岐神社』8:50

後鳥羽院 小倉百人一首99
「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふ故 もの思ふ身は」

−人を愛おしく思うことがあれば、また人を恨めしいと思うこともある。
 つまらないことにこの世をあれこれと思うがゆえに思い悩むのであろう。
 この身は。


承久の乱にて隠岐に流され、この地で崩御された後鳥羽天皇を祀る神社である。
隠岐に来る前に出家してるので、正確には後鳥羽法皇なのであろう。

神社の略由緒には次のようにある。
江戸時代初期に火葬塚は御廟として整備される。
末期には御廟は痛みも激しく、源福寺と村人等が相談し祠を建てお祀りした。
その後 水無瀬神宮※に遷座し祠は取り払われる。
紀元2600年の事業の一つとして、昭和14年に創建される。

ちなみに三種の神器がなくても即位されている正統な天皇である。
(はて、南朝正統論の根拠はなんであったか?)

さて、雲の上のことはともかく、歌人やその業績の方が自分には興味がある。
藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に撰者の
院宣を下した、勅撰和歌集『新古今和歌集』は言うまでもない。
隠岐での生活も、不自由なものであったらしいが、和歌を生きがいとして、
時折 都より送られてくる歌を批評する生活を送られたようである。

また祠を建てお祀りしたように後鳥羽天皇は、
その後も島民に愛されていたようで中ノ島で詠まれた歌は、
後鳥羽院遠島百首、「遠島百首かるた」として今の世でも人々に親しまれている。
「我こそは 新島守よ 隠岐の海の 荒き波風 心して吹け」


拝殿の佇まいは、江戸以降に相次いで創建された神社のような感じである。
本殿は見ることはできないが、隠岐造りとある。


さて、ひぐらしさんが事前に連絡を入れて下さっていたのだが、
ご神職の姿はどこにも見えない。
連絡を入れて 御朱印を分けてほしい旨を伝える。
やがて、宮司さんがお戻りになり
次に伺う『宇受賀命神社』と合わせて御朱印を分けて頂いた。


ちなみに後鳥羽天皇の第三皇子 順徳天皇も 承久の乱で佐渡に流されているが、
同じく小倉百人一首にその一首が採録されている。
順徳院 小倉百人一首100
「ももしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり」



1494年に後土御門天皇によって隠岐より後鳥羽天皇の神霊を迎え、水無瀬宮の神号を奉じる。
由緒にあるのは官幣中社に列格時のようである。
つまり2回神霊を迎えているということらしい。

水無瀬神宮の御祭神は、承久の乱に関わる三上皇である。
 後鳥羽天皇:隠岐に配流。
 土御門天皇:後鳥羽天皇の第一皇子。土佐に配流、のち阿波。幕府は厚遇。
 順徳天皇: 後鳥羽天皇の第三皇子。佐渡に配流。




写真
 社号標
 拝殿
 御火葬塚
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