甲斐奈神社(春日居町) ( No.62 ) | |
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- 日時: 2012/03/02 21:49:57
- 名前: okasurfer ID: Xv1yOnVw
- 参照: http://ameblo.jp/okasurfer-bmw/
- 甲斐奈神社(山梨県笛吹市春日居町国府361)
祭神は彦火火出見尊 大己貴命
延喜式内社(甲斐國山梨郡 甲斐奈神社 論社) 甲斐國総社 旧村社
本務社 八幡大神社(山梨県山梨市下神内川687)
駐車場はなし
御朱印は宮司宅にて授与。(要事前連絡)
当社は延喜式神名帳に載る古社で、別名守宮(しゆのみや)大神ともいい、これは四之宮がなまったものと思われる。 御朱印領八石一斗。御祭神は彦火火出見尊、大巳貴命の二神で、聖武天皇神亀3年(726)6月に建立した。この地は昔、峡之郷といい、成務天皇が甲斐国山梨郡峡之郷に国府を置いたので峡(こく)を改め甲府とし後に、国府の字に変えた。 天平年間(747)に国司田辺史広足が国府所在地を記念して古名を子孫に残そうと峡之神社と名づけ、その後、甲斐奈神社となった。 昔は11月中の申の日の祭りに氏子の男女が手に手に松明をかかげ社殿を三度回り、「ジンギャウ チャウヂャウ カンノベ チャウジヤウ」と叫びながら、最後に村中を回った。以前は鳥居の左方に七抱えもある槻(欅)の巨木があつた。 現在の本殿は明治元年の大火後、同15年に再建された。(社頭掲示板より)-
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諏訪神社(北杜市須玉町) ( No.61 ) | |
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- 日時: 2012/01/14 16:31:29
- 名前: okasurfer ID: LhGS19VY
- 参照: http://ameblo.jp/okasurfer-bmw/
- 諏訪神社 (山梨県北杜市須玉町若神子3282)
延喜式内社(甲斐國巨麻郡 笠屋神社論社)
旧郷社
本務社 三輪神社(北杜市須玉町若神子820)
駐車場は境内入口3〜4台
御朱印は宮司宅にて授与(要事前連絡)
社記に延喜式所載の笠屋神社なり。笠屋と称するは往古笠宿りの神事ありしに因り起る。又一説に此れより南穴山村に穂見神社あり之を中の社と称し、尚南駒井村に当麻戸神社(尾比礼社と伝う)あり、之を下の社と称す。 而して当社号笠屋の笠は借字にて、方言に上を加佐と云えば即ち上の社として笠屋と称え来れりと記し、甲斐国志には若神子村諏訪明神は御朱印社領三石四斗、社地七千八百坪、新羅三郎祈願所の由、社中に其の霊を祀り、義光明神と伝う、祠後大岩の上に圭角の巨石あり、之に因つて大石神社とも伝う、義光奉納の馬具とて轡一口を伝えて神宝とすと載せてある。 此れの社の南の山の中腹に新羅窪と云う所あり、是れ義光明神の旧社地なりとぞ。武田家の将黒源太清光の祈願所とも伝う。創立年代は往古村大火に類焼確たる記録なきも所蔵の棟札に次の如くあり。 棟札 諏訪大明神御神殿御建立 貞享五年辰年九月二十八日 神主中田右近正三射出雲守行之 当社東南の山上に若神子城墟あり、東より北は七里岩の上の片山、八ヶ岳 の麓の崗岩を擁し、地堅固にて又四方に達する便よき地なり。 此の地は往古日本武尊の御子等の封を給 わりし所ならんか。相伝えて云う新羅三郎義光此の城を築きたりと甲斐叢記等に見えている。 明治六年郷社に列し、同四十年御崎神社を合祀した。 「峡北神社誌」より-
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諏訪大神社 ( No.60 ) | |
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- 日時: 2012/01/08 16:12:30
- 名前: okasurfer ID: R9l1lxnQ
- 参照: http://ameblo.jp/okasurfer-bmw/
- 編集: 【回数】 1回
【名前】 okasurfer 【最終日時】 2012/01/08 16:24:34
- 諏訪大神社(山梨県甲斐市宇津谷1016 )
祭神は建御名方命
延喜式内社(甲斐國巨麻郡 倭文神社論社) 旧村社
本務社 若宮八幡宮(山梨県韮崎市若宮1―4―14)
駐車場はなし
御朱印は所管社の若宮八幡宮にて授与。(要事前連絡)
正しくは、穂坂惣社拾五社大明神宇津之谷諏訪大神社と謂う。 第十二代景行天皇御名を大足彦忍代別尊と言い第三皇子小碓命又の名倭億久名命が倭建命と言われ三世紀末から四世紀始めにかけて、大和朝廷のために名を馳せ活やく甲斐に入り、甲斐国志による、北山・武川・逸見の賊を平定して、宇津之宮村藤塚一〇一六番地に賊徒の再び起らぬよう平穏を祷り倭文神社に伊弉諾大神・伊弉冊大神・天照皇大神・月読媛大神・素戔嗚大神を併せ祀ったのが始まりで、藤塚の西南の地に吉備彦命・大伴武日命と警護の兵を共に、一時期すごしたであろう所を初在家(現初座池)と稱し地名として今に残っている。奥殿に祀られている石神倭文神社のうらに大同二年(八〇七)とあり建保五年(一二一七)御脩複と元亀二年(一五一七)武田信玄公再建の棟札と頭椎の剣など御神宝の数々と天正十年三月(一五八三)織田・徳川連合軍の攻撃を予知して逸早くいづこかに秘匿して、今に残る建保・元亀の棟札はまことに貴重である。又武田信玄公が元亀二年再建のとき武田家の守護神、諏訪大明神と庄内の神々を併せ祀りこの時拾五社大明神と奏され尚信玄公より下された御朱印状が今は行方不明である。御朱印社領壹石九斗余、社地五千四百六十坪と慶長八年癸卯三月朔日(一六〇三)家光・慶安二年十一月十七日(一六四九)及び貞享二年六月十一日(一六八五)綱吉・享保三年七月十一日(一七一八)吉宗そのほか延享四年(一七一四)宝暦十二年(一七六二)天明八年(一七八八)天保十年(一八三九)安政二年(一八五五)万延元年(一八六〇)と数多くの徳川幕府より社領安堵の御朱印状が下されている。 茲に注目したいのは、日本武命が當社を草創したのは四世紀初頭であり平成四年の現在、創建より実に一五九〇余年の歴史を有する貴い古社である。 -
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白山神社 ( No.59 ) | |
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- 日時: 2011/12/30 17:31:42
- 名前: okasurfer ID: matXLljU
- 参照: http://ameblo.jp/okasurfer-bmw/
- 白山神社(山梨県北杜市明野町上神取1070)
祭神は伊弉册命 經津主命 合祀 建御名方命 大日靈女命
延喜式内社(甲斐國巨麻郡 神部神社論社) 旧村社
所管社十五所神社 駐車場はなし
御朱印は十五所神社(山梨県北杜市須玉町江草11275) (要事前連絡)
第23代顕宗天皇の御代に勧請す、天文11年火災となり現在地に遷座したと伝えられている。甲斐国志に「上下両村の鎮守なり、黒印社領4斗4升、社地2079坪、相伝え、神部神社なりと言う。」 明治40年3月勅令の御主旨を奉じ、白山神社に諏訪神社、伊勢神明社を合祀した。-
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熱那神社 ( No.58 ) | |
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- 日時: 2011/12/02 17:47:11
- 名前: okasurfer ID: 44MZX/Wg
- 参照: http://ameblo.jp/okasurfer-bmw/
- 編集: 【回数】 1回
【名前】 okasurfer 【最終日時】 2011/12/03 00:27:29
- 熱那神社(山梨県北杜市高根町村山西割1714)
祭神は譽田別命 足仲彦命 氣長足姫命
延喜式内社(甲斐國巨麻郡 神部神社論社) 旧郷社
駐車場は境内裏手に4〜5台
御朱印は所管社の諏訪神社(北杜市高根町蔵原1844 )にて授与、要事前連絡
本日参拝させて頂きました。 さすが旧郷社、境内の御神木の杜を抜けると立派な美しい渡り廊下が社務所から拝殿に続き、拝殿には江戸時代に奉納されたと思われる武者姿の絵馬が御座います。
創建は不詳なれど、古来熱那の庄(村山北割・村山東割・村山西割・箕輪・箕輪新町・堤・小池・蔵原・五町田)の総社であった。創建当初は日本武尊が勧請祭祀されていたが康正6年2月、甲斐源氏の祖新羅三郎義光が八幡大神を合祀し熱那神社と称す。 甲斐守護武田家の崇敬篤く、出陣の際は必ず先勝祈願が行われた。 武田信玄は、武運を祈って神領を寄進の記録が残る、天正10年、武田家が滅亡すると一時社運が傾いたが、徳川氏から神領安堵の朱印状を賜る。 明治元年郷社に列する。現在の本殿は文政6年(1819)に再建されたもので三間社流造・銅版葺き(元桧皮葺き)、社殿全体に精巧な彫刻が施されている。熱那神社本殿は江戸時代後期に建てられた神社本殿建築の遺構として貴重な存在で棟礼2枚と合わせて北社市指定文化財に指定されている。
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南宮大神社 ( No.57 ) | |
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- 日時: 2011/09/25 16:35:42
- 名前: okasurfer ID: prSyWHbA
- 南宮大神社(山梨県韮崎市大草町上条東割790)
祭神は建御名方命 大己貴命 事代主命 金山彦命
延喜式内社(甲斐國巨麻郡 神部神社)旧郷社
所管社 若宮八幡宮(山梨県韮崎市若宮1―4―14)
駐車場はなしだが隣接の甘利児童センターに駐車可。
御朱印は所管社の若宮八幡宮にて授与。(要事前連絡)
諏訪明神すなわち建御名方命を主祭神とし、大己貴命・事代主命・金山彦命を配祀する、甘利郷きっての大社である。 社記によれば、新羅三郎義光が甲斐任国の時崇敬して社壇を造営したといい、武田太郎信義、その嫡男一条次郎忠頼も篤く崇敬し、武田一条氏が武川地方に封ぜられると、当社を産土神として崇敬し、その支族の武川衆諸氏も協力して当社に奉仕した史料を伝えている。 また武田信玄は当社の禰宜に対し、府中八幡宮に二日二晩参篭し、武田家武運長久と領内安穏の祈祷をすることを命じた。 徳川家が社領十六石八斗、社地四千六百坪を寄進したのは、武田家の例に倣ったものである。 現存する社殿・建造物は、本殿・拝殿・神楽殿・随神門・石鳥居などで、境内地も縮小されて千六百六十五坪に過ぎない。戦前までは、境内に新羅三郎手植と伝えられる桜の巨木があり、植物学上、全国に比類のない珍種とされていたが、惜しくも枯死した。-
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河口浅間神社 ( No.56 ) | |
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- 日時: 2011/09/22 18:24:09
- 名前: 赤城おろし ID: nj3y5SqI
- > 御朱印は社務所にて授与(土日のみ)
基本、土日のみ(且つ15時まで。2人交代で12:00〜13:00は昼食時間。書く人が食事中だと30分待つこととなる) ↑ 氏子の人達が持ち回りで宮守・授与所対応をすることとなっている。また神社・境内の説明をして下さる。
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河口浅間神社 ( No.55 ) | |
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- 日時: 2011/09/22 13:01:34
- 名前: okasurfer ID: XdJKb5Q2
- 編集: 【回数】 1回
【名前】 okasurfer 【最終日時】 2011/09/22 15:20:45
- 河口浅間神社(山梨県南都留郡富士河口湖町河口1)
祭神は木花咲耶姫命 瓊瓊杵尊 大山祇命
延喜式内社 名神大社 旧県社
本務神社
駐車場は10台
御朱印は社務所にて授与(土日のみ)
人皇第五六代清和天皇の御宇、貞観六年五月富士山大噴火の事有り、時の住民は莫大な災害を被る。此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞勧七年十二月九日戸丙辰の勅命により、富士山の神、浅間明神を此の地に奉斎、無位−擬の大領供直真貞公を祝に同郡の人伴秋吉公を祢宜に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀にして、今より1150年程前の事なり(日本三代実録による)、降って延喜の制により名神大社に列せらる。
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神部神社(北杜市須玉町) ( No.54 ) | |
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- 日時: 2011/09/14 16:22:55
- 名前: okasurfer ID: LYBOEDY.
- 編集: 【回数】 3回
【名前】 okasurfer 【最終日時】 2011/09/16 20:12:05
- 神部神社(山梨県北杜市須玉町小尾3805 )
祭神は天手力男命 譽田別命 廣國押建金日命 諏訪大神 延喜式内社(甲斐國巨麻郡 神部神社) 旧村社
所管社 十五所神社(山梨県北杜市須玉町江草11275)
駐車場はなし
御朱印は十五所神社社務所にて授与(要事前連絡)
旧小尾の総鎮守として延喜式に記載されている。創立は文武天皇大宝元年辛丑三年3月15日、社名は蔵王大権現、神門社と名のったが維新後旧名に復した。日本武尊が東征の折り、東小尾で湯治し当社前を通り猛獣、毒蛇、叛賊を退治して東征に向かった。当社前の御門、神戸は崇神天皇の御代神地として神戸と称された、その後武田は小尾街道を開き当社を信仰し、神像、鏡を奉納した。 徳川家は社領3斗6升を寄進した。 慶長年間より正月15日の前夜参籠し、粟粥を煮て、葦茎を割り中に入れ、粟粥数の多少によってその年の豊凶を占った。-
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物部神社 ( No.53 ) | |
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- 日時: 2011/08/31 23:53:34
- 名前: okasurfer ID: qrWBilnQ
- 編集: 【回数】 2回
【名前】 okasurfer 【最終日時】 2011/09/01 22:46:17
- 物部神社(山梨県笛吹市石和町松本615)
祭神は饒速日命外十神、饒速日命、可美真手命
延喜式内社 古一宮 旧村社
所管社 山梨岡神社
駐車場はなし
御朱印は宮司宅にて授与(要事前連絡)
物部十社明神とも呼ばれ、明治以前神仏習合時代は隣接する真言宗松本山大蔵経寺が当社の神宮寺であった。 主祭神は物部氏の代々の祖を10代祀った饒速日命外十神。 「三代実録」には元慶三年二月八日には、甲斐国の従四位上勲十二等物部神に、正四位下を授けたとの記述があります。 往古は山梨の郷御室山に鎮座したが後に現在地に遷座、現在御室山にも旧蹟があり古今集にも「神垣の御室の山の榊葉は神の御前に茂り合いけり」と詠じられています。 八代郡淺間神が甲斐一宮になる以前は当社が甲斐一宮で有ったと伝わっています。
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