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関東の神社めぐり プチ神楽殿掲示板
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[40] 雑談スレ prat5
日時: 2012/12/19 12:52:07
名前: 赤城おろし  ID: Z/abUBqc

雑談用スレです。
神社関係だけじゃなくてもOKです。
お気軽にどうぞ。

過去スレはこちら
雑談スレ
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=2
雑談スレ prat2
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=7
雑談スレ prat3
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=17
雑談スレ prat4
http://www.kaguraden.net/patio/read.cgi?no=33
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信濃国国史現在社 名立神社 ( No.60 )
日時: 2023/12/10 15:25:44
名前: 御津垣  ID: MqqKZtR.
編集: 【回数】 3回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2023/12/10 15:33:29

信濃国の国史現在社『名立神社』の論社は三社ある。
一つ目は「長野市松代町牧島字中組」の名立神社
二つ目は「飯山市照岡字大門495」の名立神社

それぞれ御祭神は
・健御名方命、五十猛命
・健御名方富命、木花開邪姫命、大山祇命
であるが、肝心なもう一社、名立神の最有力候補であったと言われていた
中野市穴田鎮座の名立神社が見つけられずにいた。

穴田には八幡神社があるのでこちらに合祀されたのではないか
という可能性も含めて確認していたが、
とくにそのような由緒は見つけることができなかった。

このような時(その場所にあるという情報はあるのに見つけることができない)に
確認しているのが「遺跡発掘の報告書」の類である。
遺跡の発掘において、祭祀的なものがあったのか否かは必ずと言っていいほど
触れられる内容であり、近隣の神社のとの考察などの記述もあり
有力な情報源となっている。

中野市穴田の遺跡発掘関係の資料は、
上信越自動車道建設に関わるものが多いように感じたが
その上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書「中野市内その3・豊田村内」に、
名立神社跡の写真と、
以下の文を見出すことができた。

<上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書14 -中野市内その3・豊田村内->
==============================================
〜第4節 名立神社跡等の確認調査〜
試掘B地点は栗岩英治が名立神社跡と推定した場所で、
通称「いわし山」と呼ばれている。
名立神社は『三代実録』貞観7年(865年)7月26日の条に記述があり、
神社の場所は確定されていない。
確認調査は十字にトレンチを入れた後、重機で平坦面の表土を争Jぎ、
さらに2m四方の試掘坑を設定して掘り下げたが、
かんざし、陶器片が出土したのみで、平安時代にさかのぼる遺物や
神社信仰にかかわる遺物は出土せず、遺構も検出されなかった。
栗岩氏の考定は証明されなかったが、
今回の調査結果のみでこの地が名立神社であったことを
完全に否定したともいえないだろう。
また、史料内容からすれば、この地への比定は、
それほど根拠のあったこととは思われない。
しかし、古東山道支道や同時期の集落に関して、
周辺では考古学的情報がほとんど蓄積されておらず、
この問題に関しては後考に待つほかはない。
このことは周辺で出土している平安時代遺物をどのように
意味付けるかという点にかかわろう。
==============================================

また遺跡分布図や大谷地遺跡・八号提遺跡調査範囲図から
おおよその「いわし山」の位置も掴めることができた。


なお、栗岩英治氏の論文は以下に見ることができる
<史蹟名勝天然記念物調査報告 第23輯『六國史所載、名立神址』>

これには
・穴田鎮座とした理由や、
・名立の謂われなどの考察
 ⇒アイヌ語の幣「いなを」の略したもの、「いな」を立てる所
穴田鎮座については更に
@名立の謂われと地名との関連から
 稲尾澤の頂上付近「「いはし山(原文ママ)」を鎮座地としたこと
Aいはし山は、すなわち岩清水山、岩清水八幡社(原文ママ)の鎮座地であり
 穴田村の伝承から現在の『八幡神社』の旧鎮座地
を見ることができる。

以上の考察の結果
名立神はこの八幡社であると推定、「岩清水山=いはし山=いわし山」こそ
名立神社址に外ならないと結んでいる。

そうなると
この石祠は麓にある八幡神社の元宮でもあるのであろう。
また、栗岩氏の推測をもとにするのであれば
八幡神社は名立神社の後継社ということにもなるのかもしれない。
このあたりは別の機会に八幡神社の関係者に伺ってみようと思っている。

さて、以上の情報をもとに現地の調査に赴くわけである。
結論からいうと推測地こそが正解であったのであるが、
初回の調査では石祠を見つけることができなかった。
これは草に覆われていたこともあるが、
調査位置を集落に近い谷側にフォーカスしてしまったからである。
(実際には山側 上信越自動車道に面した いわし山の端にあった)

近隣で聞き込みを行うも『名立神』についてご存知な方は皆無だったが、
いわし山の石祠の写真で「定期的に集まって刈払いしている場所である」という
情報を入手できた。
ただ、地図上でご教授頂いたポイントと実際のポイントがずれていたため
数日別の山林をさまようこととなった。
最後にお会いした方から「いわし山」の正確な位置と、
石祠の立地をお聞きしてようやくたどり着くことができたわけである。

なお、グーグルのストリートビューでは
上信越自動車道から石祠を確認することもできる。

写真
1枚目:上信越自動車道埋蔵文化財発掘調査報告書14 -中野市内その3・豊田村内-掲載写真

2枚目:2021年11月ころの石祠
1702189544-s1.jpeg 1702189544-s2.jpeg
御岩山中の薩都大神と石甕4 再々探査(完) ( No.59 )
日時: 2022/05/21 11:24:38
名前: 御津垣  ID: MpapeaZs
編集: 【回数】 4回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/07/24 12:27:07

石甕の探索から戻った翌日、
職場から帰宅して寛いでいるところに
大塚宮司様から連絡がある。

ボランティアの方が、残りの欠片を探したいとのことだ。
来年のつもりであったが、急遽週末に伺うことととした。

雨が降りそうな空模様である。
今回の参会者は(お名前は伏せさせて頂くが)ボランティアの方2名。
前回同様に社務所前に集合。
簡単な挨拶の後、山中に向けて移動する。

参拝者が多いので、前回のような目立つルートは使えない。
2人はボランティアの腕章をつけているので立ち入り禁止エリアに入っても
どうこう言われることはないが、
その先になにかあるのではないかという興味をひかれてしまうと
侵入して事故につながりかねない。
別ルートを使って人目につかないようにするようにした。
倒木が大変なんですが。。。

今回の探索では、石甕が
薩都大神または隣接する御神酒岩から谷に落ちて分裂したと想定して
前回までの発見場所に棒を立てることにした。
探索する範囲を絞ることもできる。

到着後に、簡単に前回までの状況や、磐座の説明をして作業を開始する。
谷底から磐座群、発見場所の位置関係が一見して分かるようになった。

お二人と一緒に転がっている石や草むらの下など確認する。
なかなか見つからない。
欠片だけでなくもう一つ石甕も存在するはずなのだが。
そうこうしているうちに雨が落ちてくる。

薩都大神と谷筋の中間にある支尾根へのトラバース地点は
若干の窪地となっており、落ち葉が溜まりやすいのか腐葉土のようになっている。
その位置で石甕の落下する様子をシミュレートする。
若干放射状に分散はされても、きわめて指向性がある。
前回までの発見場所を考えると草むらの位置は該当しない。
人為的に投げ捨てられでもしない限り。

ふとその場で若干丸くなっている岩を見つける。
地中に大部分が埋まっていて大きさは分からない。
同じようなものはいままであったので、どうせ同じものだろうと持ち上げる。
意外と簡単に持ち上がる。
あっけないものであるが、それが目的としていた石甕の最後のピースであった。
この場所、掘ればまだ他に見つかるのかもと思ったが、
スコップなどは持ってきていないのでそれは諦めた。

お二人をお呼びして、石甕の欠片をお渡しする。
感動されておられたが、雨足が強くなったので、下山することとした。

途中、宮司様の許可があったので
薩都神社奥宮にご案内するが、石甕以上に感動されておられた。
なにかこちらの方向から見守れていた感じがしたとのことだ。
敬神の念の厚い方々である。
きっと、今後も御岩山を、参拝者の方々を守っていってくださるだろう。

この場所もパトロールの範囲に入るだろう。
結構昔にあった姥神の盗難未遂※のようなことは防ぐことができるだろう。
知らない間に倒れていて、たまたま来た自分が立て直しとかそんなことはなくなる(;^_^A

※かつては姥神跡に祀られていたが、盗難されそうになった。
 下山中に発覚し未遂となる。
 そのため今は、姥神跡からおろされ、レプリカが御岩神社脇に祀ってある。

さて、社務所に到着して、宮司様に発見を報告。
あまり期待はしていなかったのか驚いておられた。
水道をお借りして欠片の土を落とす。
奥から前回までの欠片を持ってこられたので合わせてみる。
甕底に不自然な凹みがあるが、
発見できる石甕と蓋のピースとしてはこれで全部となるであろう。

不自然な凹みは人為的なものが感じる。
後日別の方々から助言を頂いたが、
たしかに「かわらけ」などでは祭祀の後に割ることもあるが、
さすがにこの厚さのある石甕を割ることはあるまいと思っている。
むしろ植木鉢にちょうどいいから底を開けようとして
失敗して割れたので捨てたのではないか?
というような悪意を感じてしまうのは人間ができていないからかな・・・

雨も強いのと、自宅が遠いのでこれでお暇することとした。
ボランティアの方々とは昼食を御一緒させて頂いた。
遭難騒ぎや、御岩山の状況などお聞きでき楽しいひと時であった。


〜後日談〜
大塚宮司様から電話連絡
1.古老から聞いたところ、やはり2つの石甕があったとのこと。
2.日立市郷土博物館学芸員に見ていただいたところ
  ・年代は江戸中期ごろ。
  ・材質は町屋石。
  ・石甕というより石櫃と呼ぶのではなかろうか。
  とのことであった。

  町屋石は、常陸太田市町屋町でかつて産出していた石。
  水戸藩御用達の石で、一般領民の採取を禁じていたらしい。
  水戸徳川藩の墓石にも用いられている。

水府領志が、小宮山楓軒編纂なので、おおよそ年代は合っていると思える。
確実というわけではないが、記述の石甕ではないかと推測している。

それより素材が町屋石というところが驚きである。
御岩山・薩都神社がそれだけ水戸藩とのつながりがあったということであろう。


さて、さらにその後の話だが、
2回ほど探索を行っているがもうひとつの石甕発見には至っていない。
見つけたのは「かわらけ」と「寛永通宝(水戸銭)」くらいで、
湿気のない地中にあったもの以外は状態が悪いものであった。

この辺りを確認には、
昔ロッククライミングをされていた山岳会などにお聞きするのがいいのだろうが
立ち入り禁止になっていることもあるので状況的に難しいだろうな。。。
近くに瑞牆山みたいのがあったらよかったのだが。

写真
・石甕 下の大きな欠片が今回発見部位
・石甕に蓋をしたところ
1653099878-1.jpeg 1653099878-2.jpeg
御岩山中の薩都大神と石甕3 再探索 ( No.58 )
日時: 2022/05/13 15:41:29
名前: 御津垣  ID: r3Zxei7.
編集: 【回数】 5回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/05/14 06:55:59

石甕の欠片を発見してから数年、
大塚宮司様と残りの部位を探そうとの話になる。

暖かくなるといろいろ動物や昆虫がでてくるので
谷筋に降りるのが躊躇われる。
そのため前回発見時と同じ季節に再調査を行うこととなった。

ただ、お忙しい宮司様の日時に合わせるのが難しい。
平日有休をとって伺うこととした。

社務所前で集合、籠を背負う姿がレアだ。
天気もよく探索日和だ。花粉症の自分には少々きつい。
早速現地に向かう。
表参道より賀毘禮神宮〜天の岩戸〜真崎稲荷、白狐稲荷など
諸々の霊場を経由するルートとした。
天の岩戸では、清掃ののちに大祓詞の奏上。
大塚宮司様の大祓詞。自分は低頭のみ。
御岩神社特有の文言もあるので、知らないと合わせられない。

薩都大神に到着後にも大祓詞の奏上。
厳かな気持ちで低頭。また、探索の無事を祈念する。
そういえば、薩都大神(磐座)や、奥宮を探すきっかけは
大塚宮司様から頂いた文庫本だった。
この場に二人でいることがとても感慨深い。

まずは、前回発見した谷筋に降りて、発見場所まで案内する。
発見場所が分かるようにビニールをつけておいたのだが
なんとか朽ちずに残っていた。
発見場所を前後するように谷筋の探索を始める。
前回も相当探しているつもりであるが見落しがないとは限らない。

谷上部は十分に探したので、薩都大神の山側に探索範囲を広げる。
磐座群に近い急斜面に至ったところで、平たい岩を見つける。
通常の岩ではない。大きさに対して重量もある。
前回発見したと同じような感覚である。
円形の土台の欠片か。円の2/3程度の大きさ。
谷筋で探索を続ける大塚宮司様に声をかける。
急いで登ってこられる宮司様に発見したものを手渡す。
感じるものがあったのか、うなずいておられる。
石甕を置く土台ではないかという自分の推測を伝える。

改めてこの岩の発見場所付近を重点的に探索することとした。
その下部を探ると円の残り部分を発見する。
先ほどのと合わせると完全な円形である。
目的としていた石甕の欠片は見つかっていない。
水府志料通りであれば石甕は2つあるはず。
さらに言えば今回の円形の岩は認識していなかったので、石甕とセットであるはずである。

花粉症がしんどい。
休憩をはさみながら探索を続けるがその後発見は続かない。
諦めかけたところ、地中から少し顔を出していた岩を掴んで引っ張ってみる。
自然石かと思ったが、土がとれた形状は甕の一部だった。
大塚宮司様が、先ほどの円形の岩を石甕の縁に合わせてみる。
そのうえで、土台ではなく蓋ではないかという推測をされた。
確かに形状や大きさ的には蓋のがシックリくる。

大分探索したことから、今回はこれ以上の成果はないと
判断して山を降りることとした。
復路は別ルートで、谷筋に降りて御岩神社に回ることとした。
途中、薩都神社奥宮に立ち寄り大祓詞奏上となった。

社務所に到着して、前回発見した石甕の一部と合わせると
ピッタリとはまったが、残念ながら一部欠損している状態であった。

残りの部位については、後日ということで
今回の探索は終了することとなった。

季節的にも次回は来年と、お暇することとした。

写真
・石甕と石蓋 ※左下白いものは前回の欠片
・石甕と石蓋 ※右のものが前回の欠片

〜つづく〜
1652424089-1.jpeg 1652424089-2.jpeg
御岩山中の薩都大神と石甕2 発見 ( No.57 )
日時: 2022/05/07 18:51:11
名前: 御津垣  ID: XROGybl2
編集: 【回数】 2回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/05/13 15:46:29

イワウチワの時期にはまだはやい肌寒いなか山中に入る。
鳥居から目的地まで人に会うことはない。
静寂のなか7年ぶりの薩都大神との対面である。
調査に入る前に参拝。形式的なことかもしれないが、
事故を未然に防ぐ気構えと、信仰の対象としている方々への配慮でもある。

磐座や、隣の梵天石の岩上にはなにも見出せない。
岩陰など祭祀があったかもしれない場所などでもやはり見つけることは出来なった。
そのため落下の可能性を考えて直下の谷筋を調査することにした。

直接谷に降りることはできない。
向かいの支尾根を使いだいぶ山を降りてから谷筋を登り返す。
何かしらの工事で使ったのか廃タイヤや、倒木が行く手を塞ぐ。
幸い涸れ谷であり、足元は滑ることはなかった。

登ること数十分、明らかに他とは異なる形状の岩を見つける。
人の手が入っている器の一部だ。厚みは30mmほどある。
持ち上げてしまってから発見時の写真が必要かと思い
もとの位置に戻して改めて写真を撮影する。
その後も谷筋の調査をつづけたが、成果は上がらず
時間も結構経っていることもあり下山することとした。

社務所に寄ったところ大塚宮司様がいらっしゃったので
発見の経緯をお話して、現物を奉納させて頂いた。
正直半信半疑だったが、喜んで頂けたので苦労も報われた。

写真
・薩都神社磐座から直下の谷
・石甕欠片

〜つづく〜
1651917071-s1.jpeg 1651917071-s2.jpeg
御岩山中の薩都大神と石甕1 序章 ( No.56 )
日時: 2022/05/07 18:40:55
名前: 御津垣  ID: XROGybl2
編集: 【回数】 1回   【名前】 御津垣  【最終日時】 2022/05/13 15:46:07

水戸領地地理誌(水府志料)では入四間山の項において、
薩都明神の奥院(薩都神社磐座=薩都大神のこと)についての記述を見つけることができる。

<入四間山> ※句読点、ハイフンは読みやすく追記しています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
宿内より高三十町余、方一里余、往古種々の奇瑞あり、
寛永七庚午年より、此山上へ湯殿権現を移して、猥りに登山を不許、
山中に胎内くくり、護摩壇石、梵天石、ちゃたん石、天狗の巌谷、雷神の岩谷など云ふ大石あり、
又方四五尺許の岩あり、中窪かにして霊水湧出る、是則当山の奥の院なり。
---------------------------------------------------------------------------
又大岩高一丈三四尺余、廻り五丈余あり、中間に方二尺許の穴あり、
是薩都明神の奥院といふ、其側に二つの石甕あり、明神祭日に、
此かめにて酒を造り供ふるよし、右甕古へは陶器なるか、其後石に換たるよし。
---------------------------------------------------------------------------
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

以前に見出した薩都神社の磐座の根拠は、
古地図と名称が分かっている巨石の位置関係であったが
上記にある石甕が見つけることができればより根拠として深みがでる。
そのような考えのもと御岩山中の調査をすることとなったのは2016年の春であった(※1)。

※1当時は山中の規制はありませんでしたが、現在は立ち入り禁止エリアです。

〜つづく〜
ありがとうございます ( No.55 )
日時: 2021/07/15 19:29:53
名前: 神楽  ID: zkixXFws

確かに浅間大明神は描かれていますね。
私も写真持っています。
発掘調査でも、浅間大明神への道しるべが発見されています。
私の考えだと噴火で廃絶。
論社は浅間信仰ブームのときに名乗ったか、浅間大明神の分霊社・・・若御子が無いから多分前社かなぁ。
倉渕のは影の方だと思います。

No.54に対しての引用返信です。
>お返事ありがとうございます。
>これ以上お時間を頂くのも心苦しいのでこの辺にしようと思いますがw
>浅間大明神について。
>元禄国絵図に記されているその文字、お社の絵、天保国絵図にも記されています。
>1838年の完成ですから、もし天明の大噴火で流出したのであれば抹消されてるはず。
>確かに下図となったのは噴火前の測量ですが、幕府から新たに要望されて現状と異なる古い資料を提出するでしょうか。
>私はきっとどこかに浅間大明神のお社が眠っていると信じています。
ありがとうございます ( No.54 )
日時: 2021/07/13 18:09:00
名前: やっちぼん  ID: 2dJhrF3M
編集: 【回数】 1回   【名前】 やっちぼん  【最終日時】 2021/07/13 18:10:01

お返事ありがとうございます。
これ以上お時間を頂くのも心苦しいのでこの辺にしようと思いますがw
浅間大明神について。
元禄国絵図に記されているその文字、お社の絵、天保国絵図にも記されています。
1838年の完成ですから、もし天明の大噴火で流出したのであれば抹消されてるはず。
確かに下図となったのは噴火前の測量ですが、幕府から新たに要望されて現状と異なる古い資料を提出するでしょうか。
私はきっとどこかに浅間大明神のお社が眠っていると信じています。
ありがとうございます ( No.53 )
日時: 2021/07/12 21:27:01
名前: 神楽  ID: nLzVee0k

情報ありがとうございます。
椿榛とうい文字はどこかで見た覚えがありますが、茶道からの視点はまったくありませんでした。

榛名関連の資料は持っていたはずなのですが、上野国だけでも膨大な量を紙ベースで持っているので探し出せません。
ただ、一時椿名の名前が消え、急に榛名満行が出てきたように覚えています。

伊香保沼と描かれた古地図だけ出てきたので貼っときます。

No.52に対しての引用返信です。
>お返事ありがとうございます。
>
>実は最近になって上野国交替実録帳の存在を知りました。
>不勉強、お恥ずかしい限りです。
>なんでも国司交替の際の引継ぎ書の草案で西暦1030年に書かれたものとか。
>写本ではなく延喜式・九条家本の紙背というのが驚きでした。
>そこに群馬郡の有力な神社として四社が記載されています。
>?は判読不明部分です。
>
>神社学校院像禮服祭器雑物破損無実事 項
>
>「正一位 伊賀保明神社」
>「正?位 宿祢明神社」
>「正?位 若伊賀保社」
>「正?位 椿榛明神社」
>
>椿榛!
>この名称は複数回登場しますので誤記の可能性は低いです。
>すると当時「椿榛」という名称の神社が存在したことになります。
>これが椿名神社と榛名神社に分裂したのかしら。
>
>椿と榛は茶道においてペアで使われることが多い花材です。
>このあたりもヒントになりそうですね。
1626092821-1.png
ありがとうございます ( No.52 )
日時: 2021/07/10 10:42:14
名前: やっちぼん  ID: zBXDmGzI

お返事ありがとうございます。

実は最近になって上野国交替実録帳の存在を知りました。
不勉強、お恥ずかしい限りです。
なんでも国司交替の際の引継ぎ書の草案で西暦1030年に書かれたものとか。
写本ではなく延喜式・九条家本の紙背というのが驚きでした。
そこに群馬郡の有力な神社として四社が記載されています。
?は判読不明部分です。

神社学校院像禮服祭器雑物破損無実事 項

「正一位 伊賀保明神社」
「正?位 宿祢明神社」
「正?位 若伊賀保社」
「正?位 椿榛明神社」

椿榛!
この名称は複数回登場しますので誤記の可能性は低いです。
すると当時「椿榛」という名称の神社が存在したことになります。
これが椿名神社と榛名神社に分裂したのかしら。

椿と榛は茶道においてペアで使われることが多い花材です。
このあたりもヒントになりそうですね。
ありがとうございます ( No.51 )
日時: 2021/07/06 22:15:27
名前: 神楽  ID: 3HskJLDQ

榛名神社の若宮ですか?若宮ってことは若御子ということになるのかな。
そうすると推測していた辻褄が合うかも。

椿山古墳から倉渕方面が重要なのかなと個人的に思います。
考えられるのが、倉渕側から里へ下りて椿山辺りに移った。

戸・木戸の位置から考えても、権田・神戸、若神子説があるところも、権田から東へ戸が移っていますので、古墳があるから厄介ですが、古墳が後だと思えばしっくりします。
榛名神社からは結構離れていますし、烏川沿いの神社は月波神社のような関連神社とも違う感じがします。

伊香保神社が遷宮された湯泉明神は上野国神名帳記載神社で、薬神繋がり?
火災で焼失した後、湯泉明神は合祀されたとか廃絶したとか所説ありますが、恐らく合祀でしょう。
情報がありそうであまり無い伊香保は榛名より上なのに関連神社も少なく、確実に潰されていると考えています。

榛名神社は満行権現ですね。
榛名の榛は「はる」とは読みませんし、これは学者の方も指摘しています。
私の憶測ですが、椿名の勢力が乗っ取られて榛名満行権現となり、伊香保勢から勢力圏を奪い取ったのではないかと。
なので現存する椿名の方の神社はいくつかありますが、榛名と名乗る神社より古い神社だろうと思われます。

No.50に対しての引用返信です。
>お返事ありがとうございます。
>
>私が気になっていることは、
>@榛名という名称は延喜式が初登場であること(それ以前に使われた形跡がない)
>A上野国神名帳の一宮本には「椿名」神社とあり倉渕町権田に椿名神社が実在すること
>Bご指摘のように現榛名神社は寺院としての色合いが強く、また、修験道の場でもあったこと
>C伊香保神社が湯前神社であったことの客観的な合理性がないこと
>などでしょうか。
>
>おっしゃるとおり、榛名神社は最初から神社ではなかったかも知れませんね。
>神社にはスポンサーが不可欠で、しかし、(当然ですが)榛名には古墳がない。
>地域に伊香保神社における有馬氏のような豪族がいたわけでもない。
>となると・・・。
>
>なお、高崎市箕郷町西明屋には椿山古墳という前方後円墳があります。
>地域の方々はその隣りの遺構を「榛名神社の若宮」と話しています。
>もっと分からなくなりますねw
>
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