ありがとうございます ( No.50 ) | |
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- 日時: 2021/06/26 16:25:11
- 名前: やっちぼん ID: WLjwnrB2
- 編集: 【回数】 1回
【名前】 やっちぼん 【最終日時】 2021/06/26 16:42:53
- お返事ありがとうございます。
私が気になっていることは、 @榛名という名称は延喜式が初登場であること(それ以前に使われた形跡がない) A上野国神名帳の一宮本には「椿名」神社とあり倉渕町権田に椿名神社が実在すること Bご指摘のように現榛名神社は寺院としての色合いが強く、また、修験道の場でもあったこと C伊香保神社が湯前神社であったことの客観的な合理性がないこと などでしょうか。
おっしゃるとおり、榛名神社は最初から神社ではなかったかも知れませんね。 神社にはスポンサーが不可欠で、しかし、(当然ですが)榛名には古墳がない。 地域に伊香保神社における有馬氏のような豪族がいたわけでもない。 となると・・・。
なお、高崎市箕郷町西明屋には椿山古墳という前方後円墳があります。 地域の方々はその隣りの遺構を「榛名神社の若宮」と話しています。 もっと分からなくなりますねw
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お初です ( No.49 ) | |
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- 日時: 2021/06/24 09:29:42
- 名前: 神楽 ID: YwL68OXI
- ■No.48に対しての引用返信です。
>初めまして。 >早速ですが榛名神社について1ネタ。 >榛名神社が祭典を行なう際、榛名若御子神社の氏子総代が行かなければその御戸は開かなかったという伝承が松之沢にあります。 >個人的には現・榛名神社こそが式内伊香保神社に相応しいと考えますが。 >
情報ありがとうございます。 私、個人的な見解ですが同じように榛名神社は伊香保神社だった可能性は高いと思っています。ただ、伊香保神社でなくても榛名神社ではなく寺院だけだった可能性もあります。 榛名湖はかつて伊香保沼であり、あの一帯を伊香保と呼ばれていたこと、それを考えると榛名神社は椿名古墳を考えればもっと下。本郷なのかなと。本郷だとそれはそれで問題点もあるのですけどね。
当時の権力者で榛名神社側の勢力が強くなって遷されるしかなかった、なので格上だった伊香保神社の分霊社の現存が少ない理由ではないかと。伊香保・三宮・若伊香保の位置から考えれば、かつての勢力圏は広大だったと思います。
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お初です ( No.48 ) | |
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- 日時: 2021/05/17 16:14:16
- 名前: やっちぼん ID: hqb0fgSI
- 初めまして。
早速ですが榛名神社について1ネタ。 榛名神社が祭典を行なう際、榛名若御子神社の氏子総代が行かなければその御戸は開かなかったという伝承が松之沢にあります。 個人的には現・榛名神社こそが式内伊香保神社に相応しいと考えますが。
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三宅島式内社加弥命神社探訪(完) ( No.47 ) | |
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- 日時: 2020/03/01 13:22:22
- 名前: 御津垣 ID: wZXEwAyk
- 編集: 【回数】 7回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2021/01/03 15:33:17
- 2017年に実施した「加弥命神社」の探索であるが以下の課題が残った。
@佐藤氏、森谷氏の記述と場所が異なる A写真とは一部異なる形状に感じられる B玄武岩の海礫が見当たらない
これらの解決のため三宅島を再訪することとなった。
まず、@の場所に関してだが、両氏が記述し、地図に示す場所に実際に 伺ってみることとなった。 ----------------------------------------------------------------------------- 「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、 山側へ西−西南方向に水平約400メートル(目測)ほど登ると、 径約60メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、 目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。 ----------------------------------------------------------------------------- 前回伺った爆裂火口より雄山側に200m登る。 火口底を進むと八丈薄が邪魔でかつ最終地点までの登りが急になるので、 緩やかな地点より火口壁上部を歩くこととした。 火口壁といっても実際には確りした支尾根なので危険は少ない。 現地の状況であるが、開けた平原のような感じとなっていた。 八丈薄の植生が濃く、立ち枯れの木が多数確認できる。 ただし、どれも細く前回発見した周囲710mmの巨樹に相当するものはない。 北側は谷となっており当然火口壁は見えない。 足元の確認は薄が邪魔なので出来ていないが、 少なくとも両氏が書かれている内容とは一致しない場所であった。 よって、両氏が地図に示す場所は間違いであると判断する。
つぎにAであるが、自分では判断が難しいので第三者に意見を求めることとした。 幸い『三宅島巨樹の会』の副会長に同行意見を求めることができた。 その結果「一致する箇所が多く、写真と同一として問題はないのではないか」との 意見を得た。これで解決というわけではないのであろうがそれは後の研究に譲ろう。
最後にBであるが、これは海礫そのものを発見したことにより解決している。 前回訪問時は、手前の枯草に埋没していたが、枯草を取り除くことで発見できた。 最初に訪れた自分は何をやっていたのかという不手際である。
以上3点の課題をクリア(?)したことで、 前回発見の巨樹こそが二宮神社に合祀され、のちに御笏神社に合祀された 神居宮の旧地で間違いないと判断した。
そのうえで、文章を訂正するのであれば、以下のようになるであろう。 ※全角部分の数値のみ修正 ============================================================================= 「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、 山側へ西−西南方向に水平約200メートル(目測)ほど登ると、 径約90メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、 目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。 火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7メートル(目測)、 火口底にはスコリアがやわらかく積っていて、スギが植林されている。 その火口底のほほ中央に、目通り約2メートル50(目測)高さ約15メートル(目測)、 木ずえが噴火にあって枯れたような枯れ方をしているが、 この島でもちよっと見かけない程のシイの大木がある。 =============================================================================
この神居宮の発見に至ったのは佐藤・森谷両氏の時代と違って、 衛星写真などで地形の確認が容易になったこと、 火山ガスにより見通しのきく状態になったことなどがあげられる。 テクノロジーと自然現象のおかげと言っていいだろう。 ただ、それでも両氏の情報がなければ、それらを利用して 場所を特定することが出来なかった。 困難な状況のなか情報を残してくれた両氏に敬意を表したいと思う。
なお、二回目訪問の翌日、神居宮・二宮神社の合祀先である 御笏神社の壬生宮司様に御足労いただき改めて神居宮にお参りさせて頂いた。 その際この場所は現在のところ「危険地域」に該当し、 かつ簡単に伺える場所ではないことから、場所の公開はしないことになった。 式内社の巡拝をされている方々には申し訳ないが、なにとぞご了承いただきたい。
三回におよぶ探訪は、いろいろな人の協力があって成し遂げることができた。 ここに個人名をあげることは差し控えるが改めて御礼申し上げます。
<写真> 1枚目 佐藤氏著書にある神居宮 2枚目 森谷氏著書にある神居宮 3枚目 御津垣撮影 神居宮-
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【許志伎命神社旧社地考】 ( No.46 ) | |
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- 日時: 2019/06/15 19:07:23
- 名前: 御津垣 ID: aXUsnc5w
- 編集: 【回数】 2回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2019/06/15 19:11:00
- スパムを消したことで更新していないのに
「Up」が表示されてしまったので 2017年に別所に書いていた中途半端な日記を載せておきます。
----------------- 優婆夷宝明神社に一緒に祀られている式内許志伎命神社。 もとは西山(八丈富士)の南麓甑山(こしきやま)に鎮座していたという。 江戸時代に近藤富蔵によって書かれた八丈実記にある地図には「コシキ山」との 表記を確認できる。
コシキ山の下部にある赤石はおそらく赤石山のことであり、 いまの南原スポーツ公園周辺となる。 ここには4mにおよぶ溶岩の層があり一回の噴火でできたものらしい。※1 そのような噴火があったこともあり鎮座地は溶岩層下に埋もれてしまい 正確な鎮座地はいまだに明確にになっていない。
しかしながら、赤石との位置関係、火山地質図による溶岩の流れからも 「甑山=甑峯(八丈ビューホテル付近)」ではなかろうかと推測している。※2 2017年11月当時八丈町立図書館で伺ったところ旧鎮座地の研究をされている方が いるとのことで、すでに研究結果について何らかの論文を出されているかもしれない。
ちなみに寺山はいまもグーグルマップでも確認が出来る。 ただ、その場所には山のような地形ではない。 寺山に縁がある宗福寺住職の話によると山とは林のことであるという。 しかし江戸の地図には山の形があることを考えるといまとは場所が違うのでと 考えしまう。 また、古地図にある甑山との位置関係が異なっているように見えてしまい 謎が残ってしまう。
※1 南海タイムス第3551号2013年1月25日
※2 地学雑誌『八丈島、西山火山南東麓における最近2,500年間の噴出物の層序と噴火年代』には「甑峯」と記載があり「八丈ビューホテル」付近であるという。
※3 気象庁「64.八丈島」火山地質図
写真:あとで調べて修正しておきます。 ・八丈実記記載地図-
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三宅島式内社加弥命神社探訪 ( No.45 ) | |
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- 日時: 2018/01/13 18:07:16
- 名前: 御津垣 ID: F4r1JsgM
- 編集: 【回数】 3回
【名前】 御津垣 【最終日時】 2020/03/01 13:03:54
- 三宅島式内社加弥命神社探訪
加弥命神社 御祭神:加弥命(佐伎多麻比当スの第二王子)
================================================= 二宮神社すなわち式内社加弥命神社の最も古い社地は『かみ(い)の宮』であると いわれているが、恐らく御鎮座当初の社地であろうと思わわる。他のいくつかの神社と 共に明治7年7月3日の噴火にあい、当時まで辛うじて残っていたらしいお社も、 火災に罹って二宮神社に合祀され、御笏神社の境内神社の一つとなり、 やがてまた御笏神社の御本殿に完全に合祀されることとなったものである。 しかし現在でも島民の記憶の中には、「かみいの宮は御神徳の高い神様である。」と いうことだけは、非常に強く残っている。 「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、 山側へ西−西南方向に水平約400メートル(目測)ほど登ると、 径約60メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、目測も極めて 困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。 火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7メートル(目測)、火口底にはスコリアが やわらかく積っていて、スギが植林されている。その火口底のほほ中央に、 目通り約2メートル50(目測)高さ約15メートル(目測)、木ずえが噴火にあって 枯れたような枯れ方をしているが、この島でもちよっと見かけない程のシイの大木が ある。その大木のまわりには大枝の折れたものが落ちており、その範囲だけは 植林されていない。高さ約10メートル(目測)のシイ、高さ約3メートル(目測)のツバキ、 高さ約2メートルのタブなどが、下生えのように疎に生えている。 シイの大木の根元の北東を向いたほらに、地上部高さ20センチメートル、 幅18センチメートルの細長い玄武岩の海礫が、長径を縦にするようにさし込んで 立ててある。地下部が、もう20センチメートルぐらいあるように見える。 付近の見通しが全くきかないこと、2万5千分の1地形図の等高線がよく描かれて いないために、その位置を図上に記入しにくかった。
森谷ひろみ『三宅島式内社に関する歴史地理学的研究』 =================================================
伊豆国式内社加弥命神社は、現在御笏神社に合祀されているが 元の社は、『神居宮』であるという。 神居宮の所在は、世代交代や、相次ぐ噴火で人が山に入らなくなったこともあり はっきりとしたことは分からなくなっていた。
この神居宮に関する記述がある書物としては以下のようなものがある。 『写真集 三宅島の神社』 佐藤源吾 『三宅島式内社に関する歴史地理学的研究』 森谷ひろみ
2017某日 自分が行った三宅島での探索は、 森谷氏の著書にある以下の記述をもとに行った。 ----------------------------------------------------------------------------- 「はちまき道路」から下馬野尾(げばのお)へ下るわかれ道の丁字路を、 山側へ西−西南方向に水平約400メートル(目測)ほど登ると、 径約60メートル(スギの植林の下枝を落してないので見通しがきかす、 目測も極めて困難であった)の爆裂火口様の旧火口が北東に向いて開いている。 火口底はほぼ平らで、火口壁の高さは約7メートル(目測)、 火口底にはスコリアがやわらかく積っていて、スギが植林されている。 その火口底のほほ中央に、目通り約2メートル50(目測)高さ約15メートル(目測)、 木ずえが噴火にあって枯れたような枯れ方をしているが、 この島でもちよっと見かけない程のシイの大木がある。 -----------------------------------------------------------------------------
この文章をもとに現在の地形に400m地点を書き込んでみたが、 火口的な地形は見いだせず、森谷・佐藤両氏が載せている地図情報と ずれがあるように思えた。 森谷氏自身も「図上に記入が困難であった」と書いていることもあり 位置は正確ではないのかもしれない。
では、その爆裂火口はどこにあるのか?という点であるが、 そもそも爆裂火口とどのようなものであるかを調べる必要があった。 小学館のデジタル大辞泉によると 「爆発的な火山活動により、山体の一部が吹き飛ばされてできた火口。 火砕丘をもたないため、くぼんだ地形となる。爆発火口。」とある。 この記述をもとにすれば、火砕丘タイプの火口は、隣接する丸山で 爆裂火口は、丸山に隣接する はちまき道路の内側すぐ、 となるのであろうか。
森谷氏が示す場所が、爆裂火口の一部ということはあるかもしれないが、 「火口の底」という点では異なるのではなかろうか。 そのような推察のもと、今回の探索は、 「爆裂火口の平になっている底、特に中央部付近」に 絞り行うこととした。
下馬野尾分岐から「はちまき道路」を土佐林道分岐方面に進めると コンクリートからアスファルトに変わる箇所がある。 このあたりは山側の斜面が比較的緩やかなので、ここを取りつきとした。 また、前日に伺った久良浜神社で分かったことだが、 日当たりがよい場所はハチジョウススキの植生が濃いことから、 藪漕ぎの手間を考えて支尾根を進むこととした。※
※火山ガスは谷間に流れやす為、支尾根には木が枯れずに残っている。 木々が残っていることにより下草が育たずに比較的歩きやすい。
登り始めから15分も過ぎれば火口底が右手に見えてくる。 やはりハチジョウススキの植生が濃く見通しが効かない感じだ。 火口壁の斜度はきつくはないので、火口中央まで支尾根を登ることにした。 登り始めから20分火口底へ降り始める。立ち枯れの木が至るところに見える。 ただ、すべてが枯れているわけではないようだ。 やはり藪漕ぎと、足元が見えないことで大変である。 スコリアが溜まった足元は柔らかい。流水に削られ沢状になっている個所が多い。
火口底へ降り始めて10分。火口底のほぼ中央部に着く。 シイの大木があった。形状やまわりの状況は、ほぼ記述通りである。 ただ、写真とは一部形状が異なるように見えるし、玄武岩の海礫は存在しなかった。 これをもって「神居宮」というには少し弱い気がするが、 他に該当するような大木は見いだせなかった。
やはり、結論をだすのは、森谷氏が地図に示す場所の探索後となりそうである。 -
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足尾神社奥宮 ( No.44 ) | |
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- 日時: 2016/01/19 21:39:53
- 名前: 御津垣 ID: nTL4EFNI
- ■No.43に対しての引用返信です。
>■No.42に対しての引用返信です。 >>写真: >> 足尾神社奥宮 >> 足尾神社奥宮 > > これは、これで完成形態なのでしょうか? > これに覆殿を建てるとかの追加工事があるとか…
これで完成だと思います。 奥宮は震災の影響で建て替えられていますが 震災前の写真がありましたのでご確認ください。-
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足尾神社奥宮 ( No.43 ) | |
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- 日時: 2016/01/19 00:15:46
- 名前: 赤城おろし ID: 8fgnesdg
- ■No.42に対しての引用返信です。
>写真: > 足尾神社奥宮 > 足尾神社奥宮
これは、これで完成形態なのでしょうか? これに覆殿を建てるとかの追加工事があるとか…
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足尾神社奥宮 ( No.42 ) | |
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- 日時: 2016/01/17 20:26:07
- 名前: 御津垣 ID: TV5y2egc
- 天気もよかったので加波山〜きのこ山までの縦走がてら
足尾神社奥宮に伺ってきました。
風も適度なようで、足尾山ではハングライダーやパラグライダーが 気持ちよさそうに飛んでいました。
写真: 足尾神社奥宮 足尾神社奥宮 離陸場から龍神山〜霞ヶ浦方面
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石岡市 足尾神社 ( No.41 ) | |
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- 日時: 2016/01/05 12:59:18
- 名前: 神楽 ID: fys0SswA
- 御津垣さん、詳細情報ありがとうございます。
なるほど、そういうことだったのですね。
まだ未参拝なので、車の情報がとても助かります。
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