阿波山上神社(茨城県東茨城郡城里町)の参拝記
延喜式内社(常陸国那賀郡:阿波山上神社) | |
神社名 | 阿波山上神社(あばさんじょうじんじゃ) |
鎮座地 | 茨城県東茨城郡城里町阿波山664-1 |
御朱印 | あり |
[st_af id="691"]
阿波山上神社(茨城県東茨城郡城里町)の御祭神
少彦名命(スクナビコナノミコト)
阿波山上神社(茨城県東茨城郡城里町)へのアクセス
駐車場:境内裏にあり
最寄駅:靜駅(JR水郡線)
阿波山上神社(茨城県東茨城郡城里町)の由緒
桂村史由緒
そのことが、明治初期の社司だった徳宿幹顕による「阿波山上神社御由緒調査書」写(阿波山 徳宿邦忠氏蔵)によると、古記や旧伝は損滅してしまったが、棟札が二枚残っており、天文十年十一月(1541)には大山第七代城主義在(義有)が、天正十年(1582)四月には第八代城主義勝が、それぞれ社殿を再建したことが記録されている。
また、神社古文書の写しに、古老申伝として、「天正年中までは、大山城主が代々鎮守と崇め、殊に当城の鬼門にあたる神社だったので別段に崇敬した。大山五代目因幡守義成のとき、佐竹右京大夫義舜の敗軍が大山義成の城に立てこもり、当社に祈願を続け、のち勝利を得て太田城に帰城した。このことは、まったく当社の神徳によるもので、義舜はその後長く阿波山上神社の壇徒となった。当社は正月の松飾りをしないが、太田の城も当社の例を以て、門松の飾りはしないという申し伝えがある」としている。また、佐竹義宣が秋田移封のとき、大山氏も秋田へ去り、社殿は破損におよんだが、庶民が屋根を葺いたり修復していることが記されており、城主、庶民ともども阿波山上神社を崇敬したことがうかがえる。
阿波山上神社(茨城県東茨城郡城里町)参拝記
阿波山上神社は、茨城県東茨城郡城里町、北東に那珂川が流れる国道123号沿いの桂中学校の横に鎮座する。
駐車場は神社裏手から入れる道があるので、そこからスペースに停められる。
阿波山上神社の読みは、「あわやまのうえ」「あわやまのえ」とあるが、神社誌が「あばさん」だったのでそう表示した。
歴史的にも「あわやま」だが、茨城県には筑波山「つくばさん」・加波山「かばさん」と波を「ば」と表現しているから、阿波山も「あばさん」と表現したのかもしれない。
というか、ここは山なんだろうか?
そんな疑問があったが、調べてみると元々この地が大山村の上粟山と粟村の下粟山があった。
上下の二村の粟山の内、上に鎮座していたから粟山上(阿波山上)となったそうだ。
車を停めて、一の鳥居まで。
細長い参道を歩く。
すぐに二の鳥居になる。
ここからは杉の木が多い。
阿波山神社の御神木跡。
昭和47年9月に落雷により燃えてしまった。
切り株になっているが、大きさからかなりの巨木だったことが伺える。
大宝元年に神が降臨した大杉の二代目(樹齢1000年)とされるが、今は三代目が育ってきている。
祭神が少彦名命なので年代を考えると、先に阿波山へ降臨してから大洗の磯前へ行ったのかな・・・。
ちなみに、童子(少彦名命とされる)が粟の穂を持っていた伝承があり、この地は常陸国の粟の発祥の地かつ産地だった。
阿波山上神社の由緒が刻まれた石碑。なるほど、これはまったく読めない。
きっと、重要なことが書いてあるはずだと思ったが、早々に読むのを断念した。
手持ちの資料が少ないので、手に入れ次第になるが由緒は追記しておきたいと思う。
参道を抜けたところには、井戸を使った手水舎。
社殿手前に、参集殿のような建物があった。
お祭りのときに使うためだろうか?
拝殿で参拝。
社殿は大きく、存在感がある佇まい。
社殿前には、狛犬や燈籠といったものは無かったので、少し寂しい感じもする。
本殿は覆われていないので、拝見できる。
後方の杜と本殿をしばらく眺める。
立派な社殿で、式内社としても古社の風格がある。
社殿周りの古札納めと境内社。
社名は書いていない。
Wikiだと、八幡神社・富士神社・疱瘡神社・天満神社・天王神社・伊勢神明社・稲荷神社・東照天満神社とある。
城里町には、式内社の青山神社や石船神社も鎮座しているので、合わせて参拝しておきたい。
大山草庵
阿波山上神社の入口には、大山草庵跡の案内板・石碑と延命地蔵。
阿波山上神社の隣には阿弥陀寺があり、親鸞の師である行観が開いたと云われている。
親鸞がこの地で開宗宣言をし、草庵を結ぶ(仮小屋のこと)。
下妻にも2年前に「小島の草庵」を結び、「稲田の草庵」も後に結ぶ。
これらが布教の中心地となった。
阿弥陀寺は廃寺になっているので、今は存在していない。