小坂子八幡神社(群馬県前橋市)の参拝記
神社名 | 八幡神社(はちまんじんじゃ) |
鎮座地 | 群馬県前橋市小坂子町598-1 |
御朱印 | あり |
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小坂子八幡神社(群馬県前橋市)の御祭神
誉田別尊(ホンダワケノミコト)
伊弉冊之命(イザナミノミコト)
速玉男命(ハヤタマノヲノミコト)
事解男命(コトサカヲノミコト)
建御名方命(タケミナカタノミコト)
菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)
火産霊神(ホムスビノカミ)
大日靈尊(オオヒルメノミコト)
小坂子八幡神社(群馬県前橋市)へのアクセス
駐車場:境内にあり
最寄駅:江木駅(上毛電鉄)
小坂子八幡神社(群馬県前橋市)の由緒
前橋神社要覧由緒
明治40年に、字 岩ノ下の熊野神社、字 諏訪前の諏訪神社、字 下中川の菅原神社、字 霞皆戸の愛宕神社、字 向原の神明宮を合祀して村社八幡神社とし、例祭を旧暦の8月15日と定めた。
芳賀村・芳賀町誌由緒
その当時の思い出話を町内の元老たちから聞かせていただいたところに依ると、二頭立ての馬に一頭は石宮を背負わせ、大きな幣束を立て、もう一頭の馬に長老の氏子総代が乗って、その後には集落の人たちが行列をつくり、八幡宮まで運び納めたとのことである。従って現在の八幡神社の祭神は、誉田別尊を始めとし、伊弉由命、速玉男命、事解男命、健御名方命、菅原道真公、火産霊神並びに大日るめの尊の八祭神である。
昔は祭日が、それぞれ異なり互いに親戚知人をよび合って祝い、幾日も祭りを楽しんだ事と思う。
現在は、四月十五日の春祭りと十月十五日の秋祭りとなっている。祭りは氏子総代(各区から一名)五名が中心となり、その準備は各区から二名計十名の幹事が、春秋の祭りにはのぼり旗を立てたり、初詣での準備には大きなオシメを作ったり大変な苦労を毎年やっている。
また、町の長寿会の人たちが境内を毎月一日に清掃し何時も奇麗にしている。
八幡神社は、地域一の格式を備え然も昔の面影を遺した素晴らしい神社である。更には、数年前より商工会の人たちの多大な尽力により、灯籠が沢山寄贈され、初詣に華を添えている。特に最近の初詣は地元の人は申すに及ばず、住宅団地の人たちも参加され千人を超える賑わかさで、神官の祝詞が始まる前から山道は、埋めつくされるほどである。
八幡神社が、改築されたのは大正二年で、社殿は一間半に二間の銅板葺造りであり、拝殿は三間半に二間の切妻の向拝附きである。また、社殿の前は広場があり、運動広場として活用されている。
更には、南の長い山道には杉の巨木が昼なお暗くそびえ荘厳の感に打たれる。境内には三百年近い黒松の神木(最近、松喰い虫の危険性と広場拡張のため止むえず一本伐採した)があり、今では平常の日でも参詣者の姿が見受けられる。
小坂子八幡神社(群馬県前橋市)参拝記
小坂子八幡神社は、群馬県前橋市立芳賀中学校の北、県道34号渋川大胡線から入った芳賀団地南側に鎮座する。
駐車場は鳥居前と境内にある。
車で鳥居横まで来たら、道が続いていたので境内に駐車する。
鳥居へ戻り、潜って参道を歩く。
鳥居を潜るとすぐに開けた境内に出る。
参道左側には授与所と手水舎。
上の写真にもあるが、境内の開けた社殿前に入る左右には、杉が聳えている。
鳥居のところにも、途中の参道にも杉はあるのだが、この二本だけあえてそうしているような印象があった。
樹齢はそれほどでもないけど、左右の杉が参道を狭く感じさせて、参道が開けたときの社殿へのインパクトが大きくなるような・・・気のせいだろうか。
小坂子八幡神社の狛犬。
拝殿前にあるが、中々勇ましい狛犬だ。
拝殿で参拝する。
宮司さんが出かけるようだったので、御朱印をお願いする。
参拝時は頂けたが、その後火災で御朱印が焼失してから休止中と聞いた。
令和になってからの情報だと、再開して御朱印を頂けるそうだ。
本殿は拝見できる。
銅板葺は個人的に好きな方だ。
本殿の周りには境内社が鎮座している。
本殿左側の石宮、本殿裏側の石宮と古札納め、本殿右側の石宮、御嶽山・蔵王権現。
多くは合祀した神社のお社なのだろう。
小坂子八幡神社の周辺は住宅と畑、なので静かで落ち着ける。
境内は手入れされていて、心地よい神社だった。
小坂子八幡神社と小坂子城
小坂子八幡神社は、小坂子城の本丸南に鎮座している。
神社の境内には、城跡を思わせる感じがあり、城好きにはそういう箇所が堪らないのかもしれない。
裏参道側の方に標識があったのだが、興味があまりなかったので調べてはいない。
小坂子町公民館には、小坂子城主であった五十嵐和泉守の親子を称える碑がある。
それによると、箕輪城が武田軍により落城した後、前橋へ逃げてのびた五十嵐和泉守は弓の腕を買われて北条景秀の家臣となったそうだ。
そして小坂子へ移り、城主となる。
子である五十嵐荘左衛門は、大阪冬の陣・夏の陣で大きな手柄を立てて、加増された。
ちなみに、小坂子の由来は小さな坂が多かったからのようで、五十嵐親子がこざかしい武将だったわけではない。