廣野大神社(埼玉県児玉郡神川町)の参拝記
上野国神名帳 緑埜郡:廣野明神 |
神社名 | 廣野大神社(ひろのだいじんじゃ) |
鎮座地 | 埼玉県児玉郡神川町肥土380 |
御朱印 | あり |
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廣野大神社(埼玉県児玉郡神川町)の御祭神
天穂日命(アマノホヒノミコト)
倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
誉田別命(ホンタワケノミコト)
配神
駒形神(コマガタノカミ)
菅原道真公(スガワラノミチザネコウ)
廣野大神社(埼玉県児玉郡神川町)へのアクセス
駐車場:境内にあり
最寄駅:丹荘駅(JR八高線)
廣野大神社(埼玉県児玉郡神川町)の由緒
さいたまの神社由緒
当社の鎮座する肥土の地は、武蔵・上野の国境となっている神流川の流れが変わったために、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになった。上野国に属していた時は、緑野郡土師郷の内であった。土師郷の名が示す通り、この地には土師部が居住した所で、かつて地続きであった神流川対岸の藤岡市本郷には、土師神社が祀られ、神流川沿いには多くの古墳群があり、古代の土師部の活躍がうかがえる。 当社の社宝として、上野国司が作成した国帳で永仁六年(1298)に改写された『上野国神名帳』一巻が蔵されている。これに載る緑野郡十七座の内「従三位廣野明神」が当社に比定されている。その創建については諸説あり、『児玉郡誌』には「淳仁天皇の御字、天平宝字三年(759)上野国司の創立なりと云ふ」と記すが、『明細帳』には「一条天皇御字正暦五甲午年(994)創立」とある。主祭神は天穂日命・倉稲魂命・誉田別命で、駒形神・菅原道真公を配祀する。天穂日命は土師連の祖とされることから、当社も土師部が創祀したと考えられる。ただし、天正十年(1582)関東管領滝川一益と小田原北条氏との神流川合戦の際、当社は兵火を被り、社殿や古記録を焼失したため、明確な資料がない。その後の社殿造営については、焼失後数年を経た文禄元年壬辰(1592)に「従三位廣野明神社再建」の棟札が残る。これには芦田右衛門太夫が武運長久を願って大願主となり、氏子が建てたことを別当の広栄坊が記している。ただし、文禄元年の改元は十二月のためこれは後年のものと思われる。 本殿は三間社流造りで、内陣にはそれぞれに幣束と神鏡が奉安されるほか、三体の古い木像も奉安されている。なお、この木像は、十二年に一度の子年の例祭に合わせて、御開帳が行われている。 当社の社号は、『上野国神名帳』にあるように、「廣野明神」と記され、神流川の自然堤防上の当地と、周囲に広がる氾濫原の風景から付けられた社号である。しかし、当社は化政期(1804-30)には『風土記稿』に見られる「八幡天神駒形明神合社」と号し、更に『郡村誌』には「神流川神社」と記載されている。社殿の背後に「奥宮」と呼ばれる神流川神社(祭神天穂日命)を祀ることを考え合わせると、三間社の本殿は八幡天神駒形明神合社として造営し、廣野神社を奥宮とした経緯が考えられる。それが、明治三十九年の郷社昇格に際し、神名帳に載る社号に戻したものと思われる。 当社の祀職については、江戸期は真言宗神流山不動院善明寺が別当を務めていた。善明寺は慶長四年(1599)僧広順坊の開山と伝えられている。明治の神仏分離により善明寺の管理を離れ、土師真守が神職となり、以来、真吾・秀夫と継いで、現在に至っている。
廣野大神社(埼玉県児玉郡神川町)参拝記
廣野大神社は、神流町役場の北西、神流川の東に鎮座する。
駐車場は境内右側にスペースがあるので、車数台停められる。
一の鳥居からは、細長い参道が伸びている。
参道の中央は思ったより段差で高くなっていて、車高が高くない車は下を擦るくらいというか擦った。
しばらく進むと二の鳥居がある。
二の鳥居を潜ると、左側には神楽殿。
そして、神楽殿の隣には境内社が並んでいる。
左から野原神社・太元神社・産泰神社・倭文神社・若宮八幡神社。
五社の石宮の右側には三社の石宮が鎮座している。
左から八坂神社・琴平神社・摩多羅神社。
摩多羅神社は、念仏の神で摩多羅神を祀っているのだと思う。
大きいお社は、三社並びの斜め前の社殿左側にある今宮神社。
社殿右側には稲荷神社が鎮座している。
稲荷神社の右側には御神木。
御神木の手前には四社の石宮があった。
左側から、住吉神社・伊勢神社・千勝神社・戸隠神社。
拝殿で参拝する。
のどかな境内の端っこでは、車の中で昼寝している仕事中の方々が。
どうやら昼寝スポットのようだ。
本殿は覆われていて、まったく見えない。
さいたまの神社を読んでみると、本殿は三間社で、八幡天神駒形明神合社として造営しているそうだ。
本殿の後方には、神流川神社が鎮座している。
この石宮が奥宮になっていて、廣野大神社が一時神流川神社の名称だった時代がある。
その奥は中澤家の氏神が祀られている。
廣野大神社は、かつては神流川の流れで上野国に属していたという。
緑埜郡土師郷で、この地は土師部が居住していた。
別当だった善明寺を離れてからは、土師家が宮司を務めている。