武蔵御嶽神社(東京都青梅市御岳山)の参拝記
延喜式内社(武蔵国多磨郡:大麻止乃豆乃天神社) | |
神社名 | 武蔵御嶽神社(むさしみたけじんじゃ) |
鎮座地 | 東京都青梅市御岳山176 |
御朱印 | 複数あり |
朱印帳 | オリジナルあり |
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武蔵御嶽神社(東京都青梅市)の御祭神
櫛麻智命(クシマチノミコト)
大己貴命(オオナムチノミコト)
少彦名命(スクナヒコナノミコト)
廣國押武金日命(ヒロクニオシタケカナヒノミコト)
奥宮
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
御眷属大口眞神(ゴケンゾクオオクチマガミ)
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)へのアクセス
駐車場:有料駐車場あり
最寄駅:御嶽駅(JR青梅線)
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)の由緒
由緒書・案内板由緒
山岳信仰の興隆とともに、中世関東の修験の一大中心として、鎌倉の有力な武将たちの信仰を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。
天正十八年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長十一年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南向きだった社殿を江戸城守護のため東向きに改めました。人々の社寺詣が盛んになるとともに、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に拡がり、講も組織され、現在に及んでおります。
また、日本武尊御東征のみぎり、この地で難を狼により救われたといわれ、以来神社の守しめとして多くの人々の崇敬を集めております。
明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和二十七年武蔵御嶽神社と改めました。
現在の幣殿拝殿は元禄十三年に徳川幕府によって造営されたものです。
武蔵御嶽神社(東京都青梅市)参拝記
武蔵御嶽神社は、東京都青梅市にある武蔵御岳山の山上に鎮座する。
駐車場は御岳登山鉄道の滝本駅のところに有料駐車場がある。
車で武蔵御嶽神社へ向かうと、201号が西へ曲がったところに一の鳥居があった。
暫くすると、朱に塗られた神橋(琴沢橋)がある。
駐車場に車を停めて、ケーブルカーの始発に乗り込む。
御影神社へ行きたかったが、時間が無かったので次の機会にすることにした。
焦って乗り口に行ったので、二の鳥居も稲荷神社も見逃している。
ケーブルカーは思っていたよりも急坂を上がっていき、意外と楽しめた。
御岳山駅に到着。
産安社へ向かう人が多かったが、空いているうちに社殿まで行って写真を撮りたかったので帰りにすることにした。
鳥居を潜って参道を歩く。
結構高いんだなーっと、景色を眺めて歩いて行く。
木々が多く鬱蒼としていて、整備された歩きやすい参道だが長い。
建物が見えてくると、宿坊がある地帯になる。
宿坊では、宿泊ができることはもちろん、滝行体験講座もやっている。
端っこにカブトムシの雌がいたが、そのままにしてテクテク歩く。
宿坊の最後の方は、結構な登り坂だ。
参道を歩いてヘトヘトになってきたところに神代ケヤキ。
国の天然記念物に指定されている。
案内板を読むと、日本武尊が東征の昔から生い茂っていたとされるそうだ。
やっと次の鳥居が見えてホッとする。
鳥居の奥には隋神門があり、いよいよ社殿が近いのかなと思った。
頑張って階段を登る。
鳥居の前、左側には手水舎がある。
鳥居を挟んだところに、疱瘡社。
山内に疫病や穢れが入らないように鎮座している。
階段の左右には石碑が建ち並んでいる。
隋神門に到着。
隋神門の彫刻には鳥が彫られていた。
こういった歴史的に貴重な建造物を、しっかり自分の目で本物を見るのも神社参拝の醍醐味だと思う。
だが、隋神門を潜ってまた階段だった。
階段を登っていると、左右に講などの石碑が並んでいる。
すると右側に朱の社の稲荷社。
祭神は倉稲魂神。
少し階段を登ると、同じく右側に三柱社。
祭神は、大歳神・御歳神・大山咋神。
三柱社のところからは鳥居が見えた。
左側にも奥へ続く道があるが、そちらはロックガーデンへ続いている。
興味はあるが、今回は寄らずに社殿へ向かう。
どの辺の石碑か忘れてしまったが、中西悟堂歌碑がある。
蝕之月
杉の
木の間に
かヽりゐて
佛法僧を
なくこゑ
遠し
悟堂
参道には石碑以外に、木々も堪能。
中々立派な巨木もあり、見上げず階段ばかり見てたら勿体ない。
階段が終わると、宝物殿がある。
石像は畠山重忠で、武蔵御嶽神社に奉納されている国宝の大鎧、鞍や太刀を奉納した人物だ。
宝物殿では拝観料がかかるが、国宝である赤糸威大鎧が展示中だった。
社殿前の狛犬。
狛犬っぽくなく、痩せマッチョだ。
本殿の狛犬が日本狼だから、拝殿前の狛犬は寄せているのだろうか。
拝殿で参拝する。
1番で来たはずなのに、人は多かった。
宿坊に泊まっていた人もいれば、下から登ってきた人もいるからなのだろう。
もちろん階段でヒイヒイいっている間に、かなり抜かされてるのもある。
社殿の彫刻は素晴らしい。
徳川綱吉公が造営してから修復を重ね、今に至っている。
賽銭箱を見ると、菊の御紋。
二条家祈願所になってから、使用が認められたそうだ。
その後、有栖川宮熾仁親王が皇居の西の守り神の存在として崇めるという意向が働き、正式に十六弁八重表菊紋の使用が許されたとある。
美しい武蔵御嶽神社の本殿。
神明造の本殿は明治11年の造営。
おいぬ様は本殿の狛犬。
ぜひ参拝して自分の目で見て欲しい。
私は見忘れたので。
日本狼=山犬なのだが、日本書紀に出てくる日本武尊を助けた白狼で大口眞神。
本殿へ向かう柵の左側に二柱社。
祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命。
本殿左横には八社がある。
左から国造社・坐摩社(坐は座の左側の人が口)・蚕養社(蚕の字は上が神に下が虫)・春日社・八神社・月乃社・八雲社・八幡社。
漢字表記できない文字を使っているのもあり、坐摩は「いかすり」と読む。
関東ではあまり見かけない坐摩社だが、関西だと摂津国一宮で式内社がある。
本殿奥は続いているが、右側にある本殿裏側へ。
本殿の真後ろ、狛犬がいるのが神明社。
やはり犬っぽいような狛犬。
ライオンっぽくもある気がする。
神明社の右側、武蔵御嶽神社の旧本殿である常盤堅磐社。
全国の一の宮を祀っている。
国の重要美術品であり、東京都の重要文化財だ。
常盤堅磐社の狛犬。
武蔵御嶽神社の狛犬達は日本狼に寄せたものだが、こちらは・・・。
愛くるしいほど、かわいらしい感じになっている。
常盤堅磐社の右側、朱の社殿が美しいのが皇御孫命社で天瓊々杵命を祀っている。
お社は元々は東照社であったそうだ。
皇御孫命社の狛・・・イノシシ?
尻尾を見ると豚なのだろうか。
何だこれと思ったが、とてもインパクトがあった。
本殿右側、神山靈土歌碑には、武蔵御嶽神社の土の霊力が、虫封じ・方位除けなど崇められていることが彫られている。
同じく本殿右側に東照宮が鎮座している。
祭神はもちろん徳川家康公。
神明社まで戻り、一段登ったところにあるのが北野社。
祭神は菅原道真公。
北野社の奥には、巨福社。
あまり馴染のない社名だが、祭神は埴山比女命。
土の神様で、先ほどの神山靈土歌碑でも土の霊力が出てきている。
巨福社のさらに奥にあるのが、大口真神社。
日本武尊の難を救った「おいぬ様」を祀る神社だ。
狛犬は狛狼になっている。
お社は全部回り終わって、授与所へ向かおうと思った時、ここの場所にとても惹かれた。
降りようと思ったら、チェーンがあり禁足地になっていた。
慌てて一歩退くと、案内板があった。
太占神事(ふとまにしんじ)が行われるところのようで、現在では武蔵御嶽神社と貫前神社(群馬県富岡市)だけが行っているそうだ。
非公開だが、授与所にお守りがある。
境内が山なので、天気の良い日はとても気持ちが良い。
日本武尊を祀る、男具那社は参拝していない。
足がガクガクだったのと、時間の関係で。
参拝してすぐ下山。
どんどん登ってくる人の波に逆らう。
ケーブルカーは式を挙げるのか、挙げた後なのか正装した新郎新婦と私だけで、とてもいたたまれない気持ちになった。
なお、帰りに寄ろうと思った産安社のことは、すっかり忘れてた。
境内はとても気持ちよく、また参拝してみたい神社だ。
見所を見落としたり断念したので、次回はしっかり見ておきたい。
大麻止乃豆乃天神社としての武蔵御嶽神社の推察
武蔵国の式内社である大麻止乃豆乃天神社は、稲城市に同名神社が現存する。
武蔵御嶽神社は、明治初期に蔵王権現から大麻止乃豆乃天神社へ社名変更届けを出し大麻止乃豆乃天神社と称したが、大麻止乃豆乃天神社が既にあるのでのちに却下されている。
大麻止乃豆乃天神社は、古代の祭祀氏族である卜部家が崇める氏神を祀る神社と思われる。
武蔵御嶽神社では、太占神事が行われており、それが卜部家と深く関わっているのだろう。
式内社が山頂にあって、次第に人の居住地が山から下ったことにより遷る場合も多くある。
また、一族が分かれて移り住んだ場合も、同じ氏神を祀ることから地域が分かれるのも想定できる。
山から生活に便利な川へ、稲城市の大麻止乃豆乃天神社は多摩川が近い。
武蔵御嶽神社の参道入り口近くに多摩川が流れていることから、下るのは容易だ。
青梅市には、式内社論社である青渭神社があり、こちらも同様に稲城市と調布市に論社が存在する。
青梅市よりも奥になる奥多摩町には奥氷川神社があり、その境内社の天満宮は大麻止乃豆乃天神社の名称である。
なぜ、大麻止乃豆乃天神社なのか。
やはり武蔵御嶽神社が関係していると思われる。
稲城市の大麻止乃豆乃天神社は、元は丸山明神を称し、瓦谷戸明神バケにあったとされる。
瓦谷戸窯跡では、奈良時代には武蔵国分寺の瓦などを焼いた窯跡や馬の絵などが発掘された。
大丸遺跡でも奈良時代の15基の瓦窯跡群が発掘され、相当古い時代から相当大きい規模で発展していたのだろう。
どちらが式内社なのかというのはわからないが、人がこんな山奥に住むわけがないというだけの理由は早計だと考える。
どちらも式内社という可能性もあるし、どちらかが先にあって遷って祀った可能性もある。
もちろん、両社に関係がまったくなく、どちらかだけが大麻止乃豆乃天神社なのかもしれない。
人は山から平野に降りて、参拝が大変だから里宮を作るというのも他の神社の例でいくつもある。
武蔵御嶽神社の場合は、御岳山から移り住んだ一族がいて、そのため稲城市の大麻止乃豆乃天神社の古社地は明神バケという名だったのではないかと、個人的に考える。
バケは岳、御岳の岳のことであるとするならば。
御岳山から多摩川を下った丘陵がとても便利に思える。
※管理人神楽の推察なので、鵜呑みしないで欲しい。